顰蹙有涕(顰蹙して涕有り)(「東坡題跋」)
むかしは五月四日は学校に行く日だったのに、今では「みどりの日」に成り上がり?ました。今日も旅ゆく。

彼が3年✖50回ぐらい寝ていると世の中も変わるであろう。
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宋の時代のことです。
王彭のやつが言うには、
塗巷小児薄劣、為其家所厭苦、輒与数銭、令聚聴説古話。
塗巷の小児薄劣、その家の厭苦するところと為りて、すなわち数銭を与え、古話を説くを聚聴せしむ。
町のクソガキどもは軽薄にして愚劣で、時にその家でも邪魔でしょうがなくなることがあり、そうすると数銭のカネを与えて、昔のことを講説する場所(当時から始まった「寄席」のような場でしょう)に集めて話を聞かせるのである。
こいつらは、
至説三国事、聞玄徳敗、則顰蹙有涕者。聞曹操敗、則喜唱快。
三国の事を説くに至るに、玄徳の敗るるを聞けば、顰蹙して涕する者有り。曹操の敗るるを聞けば、喜びて快を唱す。
三国志の時代の事を講談師が話はじめると、劉玄徳が敗北したと聴けば、顔をしかめ涙を流す者まで出る。曹操が敗北したと聴けば、喜んで「キモチいいー!」と謳い出す。
アホである。
ただ、まあ、阪神ファンなどの行動を見ていると、さもありなんところもあります。
それはさておき、
以是知君子小人之沢、百世不斬。
是を以て君子小人の沢は、百世斬(ざん)せざるを知れり。
このことから、立派な人・ダメなやつの評判は、百世代まで無くならないことがわかるのである。
「斬」は「絶」(絶える)。
世間の評判には気をつけねばならない。
・・・というのが王彭の指摘です。
「孟子」離婁下編にいう、
君子之沢五世而斬、小人之沢五世而斬。予未得為孔子徒也、予私淑諸人也。
君子の沢は五世にして斬、小人の沢は五世にして斬す。予いまだ孔子の徒たるを得ず、予はこれを人に私淑すなり。
孟子が言った、
―――よき人の影響は五世代後の子孫あたりで絶え、ひどい人の影響も五世代後の子孫あたりで絶えるもの。わたしは(百数十年前の)孔子の直接の弟子にはなれなかったが、わたしは(孔子の影響を)わたしの先生(孔子の孫である子思)に聴いて、ひそかに自分を善くするのに役立てている。
と。
「沢」(澤)はもともと「湿らせる、潤いを持たせる」の意。人が他人に「うるおい」を持たせる、恩を恵む、の意味(「恩沢」)にもなり、手汗でうるおいを持たせて「つや」が出る、そのつやを言い(「手沢」)、さらに湿地帯(さわ)の意になりました。ここでは紀元前四世紀の孟子は「影響」「後の評判」みたいな意味で使っています。
この一文は「私淑」の典故ですが、「私淑」は文字通りには、「ひそかに善くすること」。朱子は上文の「人」を「孔子本人」ではなく、孟子が教えを受けた孫の「子思」のことだと解釈していますので、上のような訳になります。現代の漢和辞典(例えば角川「新字源」)どおりに「直接に教えを受けていないが、ひそかにその人の徳を慕い、手本として我が身を修める」こと、という意味を当てはめると「人」は「孔子本人」と読みたくなってきますが、少しズレがありますので、要注意。(もちろん朱子学で科挙を受ける人は、です。ふつうの人はどうでもいいです。)
―――と、孟子は五世代(朱子の解釈では150年ぐらい)で評判は絶える、と言っていたのですが、百世代経っても変わらないものもあるのだ。
ちなみに、王彭はおやじが王愷、武官であった。
頗知文章。
頗る文章を知れり。
文学や教養についてたいへん詳しかった。
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宋・蘇東坡「東坡題跋」より「記王彭論曹劉之沢」。今日はチャイナでは五四運動の日ですね。まだ100年ちょっと(三~四世代)だから「孟子」でも解決されていません。
王彭という人はどんな人かよくわからないようですが、蘇東坡の若いころからの知り合いで、東坡に仏典を紹介してくれた人でもあるそうです。