客星凶象(客星は凶象なり)(「訂訛類篇」)
どうしてまだわれらには見えないのでしょうか。

アンドロメダだめだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
清の乾隆年間(1736~95)の半ばぐらいかな、のころのことですが、一世紀ほど前の大詩人、漁洋山人・王士禎「居易録」を閲していたら、
客星、凶象也。
客星は凶象なり。
客星(宇宙の一角に突然それまで無かった星が現れ、しばらくして消える現象。超新星爆発だろうと推測されています)現象は、悪いことが起こる前兆である。
と書いてあった。
「へー」
とはなくそほじくりながら読み進めますと、
其数有五。曰周伯、曰老子、曰王蓬絮、曰国星、曰温星。
その数、五有り。曰く「周伯」、曰く「老子」、曰く「王蓬絮」、曰く「国星」、曰く「温星」。
五種類あって、どれかが出る。1は賢者・周伯星。2は聖人・老子星。3は仙人・王蓬絮星。4は都市国家を象徴する国星。5は星の色が赤みを帯びていることから温星という。
そして、
周伯主喪者也。老子主饑者也。王蓬絮主兵者也。国星主疾者也。温星主暴骸者也。
周伯は喪に主たるものなり。老子は饑えに主たるものなり。王蓬絮は兵に主たるものなり。国星は疾に主たるものなり。温星は暴骸に主たるものなり。
1周伯星は重要人物の死をつかさどる星。2老子星は天候不順と飢餓をつかさどる星。3王蓬絮星は戦争・兵乱をつかさどる星。4国星は流行病をつかさどる星。5温星は死者たちの骸が葬る者もなく曝されていることを掌る星である。
皆天道之至不祥。
みな、天道の至りて不祥なるものなり。
どれもこれも世の中のめぐりの、最低にヤバイことばかりである。
ほんとだよなー、と思いました。
以上。
さて、
按建武三十一年十月客星見。
按ずるに建武三十一年十月、客星見(あら)わる。
記録を調べてみると、後漢の建武三十一年(西暦55年)の冬十月、客星が出現している。
この時に、厳光(字・子陵)の事件が起こっています。
後漢の初代・光武帝は若いころ、厳光と同学であった。後、厳光は隠者となっていたが、光武帝に告げる者があって、帝は彼を招いた。
光武引厳光入内、論道旧故、相対累日。因共偃臥、光以足加帝腹上。
光武、厳光を引きて入内せしめ、旧故を論道して相対すること累日なり。因りてともに偃臥し、光、足を以て帝の腹上に加う。
光武帝は厳光を呼んで内裏にも引き入れ、むかしの話をしあって何日にもなった。その間には一緒にごろごろと寝相も気にせず寝転がっていたから、ある晩、厳光の足が帝の腹の上に乗ったまま眠っていた。
なんと、一緒に寝るとは! と興奮する人もおられるかも知れませんが、彼らは若いころ、古代のメンズクラブ(若衆宿)でほとんどボーイズラブ的な付き合いをしていた(旧制高校の寮にいたようなものですよ、いたことないから知らんけど)のだからあまりに馴れ馴れしくしあってても、仕方ありません。
結局、厳光は帝の側には残ってくれず、また山中に帰って行った。
明日、太史奏客星犯御坐甚急。帝笑曰、朕与故人厳子陵共臥耳。
明日、太史、客星御坐を犯すこと甚だ急なり、と奏す。帝笑いて曰く、朕、故人厳子陵と共に臥するのみ、と。
その翌日、天文官が急ぎの奏上にやってきた。何事かと引見すると、筆頭天文官曰く、
「ちょ、超新星が、帝のお側を意味する御坐星座に近づき、激しく攻め立てましてございます。危険な予兆にございまする!」
帝は笑っておっしゃった、
「それは、ゆうべ、わしの古い友だち・厳子陵と一緒に寝たからじゃ」
と。(「後漢書」逸民列伝より)
ところで、
後二年光武崩。
後二年、光武崩ず。
それから二年後の建武中元二年(西暦57)、光武帝は崩御した。
此豈亦因子陵致乎。
これあにまた子陵の致すに因らんや。
これもまた、厳子陵という客星のせいだ、というのであろうか。
「後漢書」をさらに読んでみますと、
自後明帝、順帝星三見、章帝一見、和帝五見、霊帝再見。
自後、明帝、順帝星三たび見われ、章帝にひとたび見われ、和帝に五たび見われ、霊帝に再び見わる。
それ以降、明帝(在位57~75)と順帝(在位125~144)の時には三回客星が出現している。章帝(在位75~88)は一回、和帝(在位88~105)は五回、国が無茶苦茶になった霊帝(在位168~189)の時は二回であった。
史占或主喪、或主兵、其他不勝紀。
史占あるいは喪を主とし、あるいは兵を主として、その他、紀するに勝えず。
歴史書に遺されている前兆占いとしては、あるいは重要人物の死の前兆だとか、あるいは戦乱の前兆だとか、いろいろ書いてあってここで検討することが不可能なほどである。
総之験無子陵之類。後人信之、謂子陵為客星云云。其説新異而甚有理、然是襲桑民懌客星亭記耳。
これを総ずるに験に子陵の類無し。後人これを信じ、子陵は客星たり云云と謂う。その説新異にして甚だ理有るも、然るにこれ桑民懌の「客星亭記」を襲えるのみなり。
これらを総合してみても、どうやら厳子陵のような(帝の腹に足を乗せて出現した)例は発見できない(。どうもこれは、天文官が「客星」と言ったと「後漢書」に書いてあるから)後の人はみんなそれを信じ、厳子陵は「客星」だったのだ、だからどうだこうだ、と言うのである(が、本当は「客星」という現象の中には入らない事案なのではないか)。厳子陵が客星で、それがどんな事件の予兆になったか、というのは、新奇でオモシロくて、なんだか理屈にもあっているような気がするのだが、明・萬暦の文人・桑民懌が書いた「客星亭の記」の焼き直しに過ぎない。
のだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
清・杭世駿「訂訛類編」371則。天道の至って不祥(世の中が最低のヤバイ状態になる前兆)だとしたら、どうしてまだ起こっていないのだろうか。少なくとも日本では出現していてもおかしく・・・と思ったのですが、まだ大丈夫なんですかね。もうちょっと羽伸ばすか。