不如境順(境の順なるに如かず)(「幽夢影」)
いつだって冥途への旅路だけは順調だ。

揚げ物、しょっぱいもの、炭水化物など美味いものは冥土の旅の汽車やバス、楽してどんどん進めるよ。
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清の時代のことですが、
〇創新庵不若修古廟、読生書不若温旧業。
新庵を創るは古廟を修むるに若かず、生書を読むは旧業を温むるに若かず。
新しいお寺を創るよりも、古い祠を修理する方が幸福になれる。
読んだことの無い書物を読むよりも、昔から慣れ親しんだ古典を読み直す方がためになる。
と言ってみたところ、
張竹坡曰く、
是真会読書者、是真読過万巻書者、是真一書曾読過数遍者。
これ真に読書を会す者なり、これ真に万巻の書を読過せる者なり、これ真に一書つねに数遍読過せる者なり。
さすがは本当に読書ということを理解しているお方だ。さすがは本当に一万冊ぐらい書物を読んできたお方だ。さすがは本当に一冊の本をいつも何回も世も直してきたお方だ。(まったくもってごもっとも。)
うるさい。
順天石曰く、
惟左伝、楚辞、馬班杜韓之詩文、及水滸、西廂、還魂等書、雖読百遍不厭。此外皆不耐温者矣。奈何。
左伝、楚辞、馬・班・杜・韓の詩文、及び水滸、西廂、還魂等の書のみ、読むこと百遍といえども厭きず。この外みな温むるに耐えざるものなり。奈何(いかん)ぞや。
「春秋左氏伝」、「楚辞」、司馬遷の「史記」、班固の「漢書」、杜甫と韓愈の詩と文章、それから「水滸伝」「西廂記」「還魂記(牡丹亭)」などの書物だけではないだろうか、百回読んでも厭きないのは。これ以外なすべて読み直す価値の無いものだ―――と言ってみたらどうだろうか。
この「幽夢影」を忘れておる。
王安節曰く、
今世建生祠、又不若創茅庵。
今世の生祠を建つるは、また茅庵を創るに若かざらん。
最近は生きている権力者をお祀りする神社を建てるのが流行りだが、それよりは茅葺きのお寺を創る方がまだましだろう。
それはそうじゃ。
また、
〇妾美不如妻賢、銭多不如境順。
妾の美なるは妻の賢なるに如かず、銭の多きは境の順なるに如かず。
美人の愛妾がいるよりも、分別ある女房がいる方がいい。
カネがいっぱいあるよりも、人生がうまくいってる方がいい。
と言ってみた。
張竹坡曰く、(またこいつか)
此所謂竿頭欲進歩者、然妻不賢安用妾美、銭不多那得境順。
これいわゆる、竿頭に歩を進めんとする者なり。然れども妻賢ならざればいずくんぞ妾の美を用いん、銭多からざれば何ぞ境の順なるを得ん。
この言葉は、禅僧がいう「百尺竿頭に一歩を進む」(30メートルの高さの竿の先に立っていて、虚空に向かってもう一歩前に歩いてみろ。そうしなけば新しい自分は見いだせない)という境地であろう(やけくそになっているのではないか)。女房が分別がなければ愛妾が美人でも手は出せないし、カネが無ければ人生うまくいくはずないではないか。
むむむ。
張迂庵が代わりに反論してくれて、曰く、
此蓋謂二者不可得兼、舎一而取一者也。
これけだし二者の得て兼ねるべからず、一を舎いて一を取るを謂うものならん。
この言葉は、両方とも得られることがあるとは言ってないんだろう。どちらがいいかといえばこちらだ、ということを言っているんだ。
そのとおり。両方とも得られたら苦労しない。
また曰く、
世間固有銭多而境不順者。
世間もとより銭多くして境順ならざる者有り。
世の中には確かにカネはたんまりあるのに「うまくいってない」と言ってるやつが多いからなあ。
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清・張潮「幽夢影」第124・123段。分別ある女房と権力者はお祀りするに値いするのであろう。