以為快也(以て快と為すなり)(「嘯亭雑録」)
失態続きで、だんだんクビが涼しくなってきました。・・・いや、もうクビない状態だから大丈夫だ。

クビが涼しいならナベに入れてぐつぐつと温めてやろう、という配慮もありうる世の中だ。
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清の時代、江蘇・江陰の町の学校に季教諭という人がいた。
性怪誕、語多不経。
性怪誕にして、語多く不経なり。
変人で気宇壮大、非常識なことをよく言うのであった。
同僚だった韓旭亭先生は
好遊覧山水。
山水を遊覧するを好む。
山や川をめぐる旅行が好きだった。
あるとき、季教諭が言った、
君何時遇虎豹、乃作其小餐也。
君、いずれの時には虎豹に遇いて、すなわちその小餐と作(な)るや。
「おまえさん、まだトラやヒョウに出くわして、そのままそいつらの軽食になってしまっていなかったのか」
と。
江陰には
有耆英会。
耆英会有り。
「耆」(き)は六十歳以上、または七十歳以上の老人を言う。
「元気な老人の会」というのがあった。
季と韓は地域の知識人としてその会合に招かれたが、その席上で季が大声で言うには、
何所謂耆英、謂之風燭会可也。
何ぞ耆英と謂うところぞ、これを風燭会と謂うは可ならん。
「元気な老人、なんて何故言うんだろうね。これは「風の前のともし火の会」というべきじゃないのか」
と。これには韓も閉口した。
あるとき、
戯作討海寇檄。或有謂非宜。
戯れに「海寇を討つの檄」を作る。あるひと宜しきにあらずと謂う有り。
ふざけて「海賊退治の呼びかけ状」という文章を作って発表した。さすがに「そんなもの、ふざけて作るものではない(、処罰されるぞ)」と批判する人があった。
季は言った、
人安得縛向菜市口、鋒刃過頸、以為快也。
人、いずくんぞ縛されて菜市口に向かい、鋒刃頸を過ぎて、以て快と為すを得ん。
「人間、縛られて(死刑場である)野菜市場前に連れていかれて、首切り刀が首を通り過ぎてスパッと斬られる、そんなキモチよさを味わいたいものじゃないか」
と。
変な人がいるものだと思ったのですが、南北朝時代の歴史書である「北史」を繙くと、劉居士という人が出てくる。
このひと、
不遵法度、毎大言曰、男児要当辮髪反縛蘧除上。
法度に遵わず、つねに大言して曰く、「男児、辮髪反縛されて蘧除上に当たるを要(もと)めん」と。
「蘧除」の「除」は本当は草冠が付く字です。「きょじょ」。南北朝時代の俗語で「うつむくことができない」状態を指すそうです(「諸橋大漢和辞典」による)。
法律や規則を守らず、いつも大きな声で、
「男と生まれたからには、ちょんまげを引っ張られて、仰のけにされ(て首をちょん切られ)たいもんじゃないか」
と言っていた。
そうです。
乃知古今竟有此怪誕人也。
すなわち知る、古今ついにこの怪誕人有るを。
つまるところ、どんな時代にも、こういうタイプの気宇壮大な変人というのはいるものだとわかった。
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清・愛新覚羅昭連「嘯亭雑録」巻十より。こういう人いるとオモシロいですが、同僚で一緒にクビ斬られようと言い出すとイヤですね。・・・その前にわし自身は風燭会だが。
もう趣味の世界で生きているみたいなもんです。