去花間艸(花間の艸を去る)(「伝習録」)
今日は気づかれした。それ以外は疲れていませんが。いずれにせよ早く寝なければなりません。

善悪とはなんであろうか。侵略者が侵略されて「命が宝じゃ」というといいものになるのだろうか。カンムリわしよ教えてくれ。
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明の時代のことですが、わたくし薛侃が
去花間艸、因曰天地間何善難培、悪難去。
花間の艸を去り、因りて曰く、「天地間、何ぞ善は培い難く、悪は去り難き」と。
花の間の雑草を抜く作業をしながら、なんとなく言った。
「天地の間のありとあらゆることについて、どうして善きものは培養しがたく、悪しきものは除去しがたいのかなあ」
それを聴いて、先生がおっしゃった。
未培未去耳。
いまだ培わずいまだ去らざるのみ。
「培養しようともせず、除去しようともしてないだけじゃ」
「はあ」
わたくしがぼけーとしていると、しばらく間を置いて、またおっしゃった、
此等看善悪、皆従躯殻起念、便会錯。
この等の善悪を看るに、みな躯殻より念を起こせば、すなわち錯(あやま)ち会す。
「会す」は「可能」を意味する補助動詞的なコトバです。
「いま言っていたような「善きもの」「悪しきもの」についての考察は、すべて身体的・物理的な観点から考えるので、誤解が起こってしまうんじゃよ」
「はあ」
侃未達。
侃、いまだ達せず。
わたくしはそんなこと言われてもよくわからんので、ぼけーとしていた。
すると、先生はおっしゃった、
天地生意花艸一般。何曾有善悪之分。子欲観花、則以花為善、以艸為悪。
天地の生意は花艸に一般なり。何ぞつねに善悪の分有らんや。子の花を観んと欲せば、則ち花を以て善と為し、艸を以て悪と為すなり。
「宇宙の、モノを生かしてやろう、生命を全うさせてやろうとする方向性は、花についても雑草についても同じである。どうしてはじめから善と悪の別があろうか。いや、ない。おまえさんが花の咲くのを見たいと思っているから、花は善きもの、雑草は悪しきもの、としてしまっているだけじゃ」
「はあ」
如欲用艸時、復以艸為善矣。此等善悪、皆由汝心好悪所生、故知是錯。
もし艸を用いんと欲する時は、また艸を以て善と為さん。この等の善悪、みな汝の心の好悪によりて生ずるところ、故にこれ錯まれるを知る。
「おまえさんが雑草を利用したいと思ったら、その時は雑草が善きものになるぞ。ここでいう善きもの・悪しきものは、すべておまえの心の中の好き嫌いから生まれてきているものなのじゃ」
「はあ」
少しはわかってきたぞ。
然則無善無悪乎。
然ればすなわち善無く悪無きか。
「ということは・・・「善き」ことは無く、「悪しき」ことも無い、ということですか」
「うーん、もともとは無いんだけど、
無善無悪者理之静、有善有悪者気之動、不動於気即無善無悪、是謂至善。
善無く悪無きは理の静、善有り悪有るは気の動、気に動かざれば即ち善無く悪無し、これを「至善」と謂うなり。
「善きこと無く悪しきことも無いのは、世界の根本原理が静止しているときの状態。善きことあり悪しきことも有るのは、万物をあらしめる根源物質が活動しているときの状態。根源物質が活動していなければ善きことも悪しきことも無いので、その状態を(「大学」では)「至善」(完全なる善き状態)と言っている」
「ふむふむ・・・ええー! 先生、でも、
仏氏亦無善無悪。何以異。
仏氏もまた善無く悪無し。何を以て異なれる。
仏教の教えも善きことも悪しきことも無い、と言っているではありませんか。仏教と同じだと現世はダメになってしまう(と教えられています)が、それとどこが違うんですか」
「それは・・・」
以下、長々と会話が続きますので省略。明日早いんです。ちなみに上記のわたくしを指導してくれる気の長い「先生」は王陽明先生です。
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「伝習録」巻上・薛尚謙所録第101章より。陽明学の人が大変重視する有名な「無善無悪章」です。現代では王陽明読んでもおカネももらえないし誰からも尊敬もされないので誰も興味ない(興味を惹くのはおカネとマウント取りだけ、という世の中ですからね)、と思いますが、もし続きを知りたければ、どこかで「伝習録」を入手して読もう。読んでもわからん、という時は百回ぐらい読もう。・・・わからなくても「おれは百回読んだ」という自信が、なんじの精神を培い、鍛えてくれるであろう。
なお、肝冷斎は生涯三回ぐらいしか読んでないのであまり鍛えられておりません。