5月20日(土)・・・・・・・・・・・・・
行きがけの駄賃的に沖縄県立美術館を視察。
具志堅聖児展をやっていたので400円で見ていく。大正時代に上京してからの修業時代の話がおもしろい、というか大変だったようです。
それから、西原・幸地を調査しました。
幸地の差石(さしいし)。赤丸の中に四箇ぐらい転がっています。本土の「力石」ですが、ここの解説板で、「転がす」「少し浮かせる」「膝に乗せる」・・・「担ぎ挙げる」など七種類の行動で判定されることになっていた、ということをはじめて知りました。確かに、絶対持ち上がらなさそうな石もよく置いてあるのは「転がす」も一つの成果として認められたからだったのだ。謎が解けた!
幸地の按司ガー(井戸)。このあたりが幸地グスクの大手にあたると思われる。
幸地グスク前の広場。琉球松が印象的。ここからは運玉森や佐敷の山、中グスクの海まで見渡せる。また、この城内を首里=北中城間の上方道が通っており、関所城として設けられたものかという。幸地按司と今帰仁按司(これは北山の今帰仁とは違うであろう)との争いが「琉球国由来記」に、琉球戦国期の荒々しい闘争の記録として遺されているのである。
中心部に登る石段。上にはびじゅるさまの祠があります。「びじゅる」は「賓頭盧さま」ですが、沖縄では海岸などで拾ってきた聖なる石が祀られています。
びじゅる祠から北側に下りると、馬場跡かといわれる曲輪があります。これは曲輪の北西端の「グスクガー」。この先(撮影者の背後)にもかつては尾根があって、上記の「按司ガー」のあたりに下りていたようですが、今は尾根部が削平されてしまっている模様。
グスクから北方に登る。幸地の腰当にあたるのであろう、「子根軸御嶽」(左)と「黄金御嶽」。県営住宅の建設でこういう形に整理されたものと思われる。
ひめゆりの群生の奥にある、幸地の古い聖地・石嶺御嶽。琉球国由来記にも出てきます。
幸地のヒージャーガー。琉球国由来記記載。この裏手にヒージャー御嶽もあった。
石嶺御嶽の山をぐるりと下りた方から入れる、幸地按司墓。ガマもあって神々しい場所でした。申し訳ない感じがするので写真は登り口だけにしておきます。機会があったら行ってみてください。
小波津のちちんたグスク。この近くには陣地壕もあり、グスクの上の方には尚円王長子嘉手刈前さまのお墓、内間ノロ墓などもある。また、先月発見した御茶多理真五郎墓の裏側でもあります。
こんなすごいの食うで。カロリーが体に染みわたる。
そのあと、首里でこんな攻撃を受ける。これはなんだ?
おまけ
ゆし豆腐そばに青ネギを追加します。
こんなになりました!もちろん食う。
この数か月で西原町の文化財についての知識を増大させた。大きな収穫がありました。が、体重も増えた。