必有師承(必ず師承有り)(「棲霞閣野乗」)
日本にはすごい技術があるのですが、肝冷斎は学んでいません。やる気がなかったのではないのです。

自由気ままに見えるこいつらにも師匠とかいるのであろうか。技術ではないからいるはずないか。
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清の康煕年間(1662~1722)、宮中の太和殿の建て替えをする際、
有老工師梁九者、董将作。年七十余矣。
老工師・梁九なる者有りて、将作を董す。年七十余なり。
「董」(とう)は「ただす」と訓じますが、特に建築現場の「監督」の意味にもなります。
棟梁の梁九というじじいがいて、建築の監督をしていた。じじいの年はもう七十を越えていた。
このおやじのいう事には、
自前明及本朝大内興造、皆董其事。
前明より本朝に及ぶまで、大内の興造、みなその事を董す。
「先の明の時代から、今の大清朝の時代まで、宮中の建築改修は、すべてあっしが監督してきたんでっさあ」
とのことであった。
ある日、その作業を見ていたが、
手制木殿一区、以寸准尺、以尺准丈、不踰数尺許、而四阿重室、規模悉具。殆絶技也。
木殿一区を手制し、寸を以て尺を准(なぞら)え、尺を以て丈を准え、数尺許りを踰えざるに、四阿重室、規模ことごとく具わる。ほとんど絶技なり。
宮殿一区をまずこまごまと制作する。その寸(3.2センチ)を尺(32センチ)に拡大し、尺を丈(3.2メートル)に拡大していく。最初の作ったものは数尺(1メートルぐらい)に過ぎないのに、その中に、四方の小部屋も大きな部屋も、全体像がすべて造り込まれているのだ。誰にも真似のできない技術と見えた。
「大したもんだね。どこでこんなことを学んだのかね」
「そいつでっさあ」
と、梁が語るには、
初、明之季、京師有工師馮巧者、董造宮殿、自萬暦至崇禎末。老矣。
初め、明の季、京師に工師・馮巧なる者有りて、宮殿を造るを董し、萬暦より崇禎の末に至る。老いたり。
むかしむかし、明の末頃に、都・北京には、大工の馮名人という人がいた。この人は宮殿造営の監督を掌り、萬暦年間(1573~1619)から崇禎年間(1628~44)の末に至ったが、もうずいぶん年をとっていた。
九往執役門下数載、終不得其伝。
九、往きて門下に執役すること数載なるも、その伝を得ずして終わる。
まだ若かったころの梁九は、田舎から出てきて、馮名人のもとで数年修行していたが、まったく何一つ教えてもらえないままだった。
その間、梁九は、見よう見まねでいろんな工夫をしていたつもりだった。
その日も馮が人に何やら指図しているのを少し離れたところで聞くともなく聞いていたが、突然、
巧顧曰、子可教矣。
巧顧みて曰く、子教うべきなり。
名人がこちらを見て、「おまえはものになりそうじゃな」と言った。
于是尽伝其奥。
ここにおいて、その奥をことごとく伝う。
それから、名人の技法を何から何まで教えてもらった。
全部教えてもらった、と思ったその日に名人は倒れ、そのまま口が利けなくなって、
「あの世行きでさあ」
その後、
九遂隷籍冬官、代執営造之事。
九、遂に冬官に隷籍し、代りて営造の事を執る。
「冬官」は、古代の「周礼」に土木・建築に関する役所を「冬官」と呼んでいたことから、営造に関する官庁を指す。
梁九は、造営局に所属する技術者となり、馮の代わりに建築事業を執り行うようになったのである。
「だからあっしも、誰か弟子に教えたくなったら、もうおしめえが近いってことでさあ」
「なるほどなあ」
それにしても、
一技之必有師承、不忘授受如此。
一技の必ず師承有りて、授受忘れざることかくの如きなり。
どんな分野の技術にも、先生と弟子がいて、教え教えられて代々伝わっていく―――そのことを目の当たりにした思いであった。
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清・孫静安「棲霞閣野乗」下巻より。わしもそろそろ弟子を取るか。・・・と思ったが、伝えるべき技がありませんでした。やる気がなかったのではなく、死にかけの適当な先生がいなかったからでしょう。運命的なものだったのでさあ。
本日も生きておりました。