4月16日 若いひとたちはウコン酒知ってる?

与古異矣(いにしえと異なれり)(「疑曜」)

昔とは違う世の中なのだ。

わしの若いころまでは、妖怪軍団は暗闇に確かにが潜んでいたものだが、今では影も形もないのう。

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明末のひと張萱が言うには、

古者醸酒以黒黍為上、其色必黒。

いにしえは、酒を醸すに黒黍を以てするを上と為せば、その色必ず黒なり。

古代においては、お酒を醸すには黒キビを使うのが上等とされておった。この酒は必ず黒い色になる。

祭祀用鬱草和之者、以鬱草黄色、故酒色黄而且香。

祭祀には鬱草をこれに和するものを用い、鬱草黄色なるを以て、故に酒色黄にしてかつ香ばし。

「鬱」は「ウコン」です。

ご先祖様の法事の際には、ウコンをこの黒酒に混ぜたのを使う。ウコンは黄色いので、お酒の色も黄色になり、いい匂いがつくのである。

これが「詩経」大雅・文王「旱麓」篇にいう、

黄流在中。

黄流、中に在り。

黄色い液体が、(ひしゃくの)中にある。

という「黄流」の酒である。

ところが、

今又乃以黄色為酒品之悪者、与古異矣。

今またすなわち、黄色を以て酒品の悪者と為すは、いにしえと異なれり。

最近ではどうも、黄色いお酒はお酒としては上ものではないとされる。昔とは違っているのだ。

昔と違うことは多いです。年寄りは悲しくなってきますが、昔の年寄もこんな気持ちで変わりゆく世界を見ていたのだと思うと、それも悲しくなってきますね。

又絶無以鬱草和酒、豈其法不伝耶。

また、絶して鬱草を以て酒に和すること無きは、あにその法の伝わらざらんや。

また、ウコンをお酒に混ぜることが絶対ない。これは、その手法が伝わらなかったわけではないだろう(好みが違ってしまったのだ)。

ところで、

若酒之不和以鬱者、又名為鬯。是黒黍之酒即鬯也。若加以鬱、乃名鬱耳。

酒の鬱を以て和せざるは、また名づけて「鬯」(ちょう)と為す。これ、黒黍の酒にして即ち鬯なり。鬱を以て加うれば、すなわち鬱と名づくるのみ。

お酒にウコンを混ぜないのは、むかしは「鬯」と呼ばれたのである。つまり、黒キビのお酒が「鬯」(ちょう)で、これにウコンを加えたものが「鬱」、つまり「ウコン(入り)」と呼ばれていた、というだけなのである。

ただし、漢・許慎「説文解字」によると、

鬯、以粔醸鬱草。

鬯、粔を以て鬱草を醸せるなり。

鬯(ちょう)とは、煮たコメを発酵させて、ウコンを醸したもの。

という。

是鬯亦可以兼鬱。自鬱与鬯対言之、則当致其弁耳。

この鬯また以て鬱を兼ねるべし。鬱と鬯とこれを対言するは、その弁を致すべきのみ。

この場合の「鬯」は、また「鬱」の意味も兼ねているようである。そうすると、「鬱」と「鬯」が別物であると定義するのは、それぞれの違いを説明するための命名である、と知られる。

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明・張萱「疑曜」巻四より。この本はかつては明末の奇人・李贄の著書だと伝えられていた考証学の本で、こんな詰らないことばかり書いてあります。しかし、なんでか知らんのですが、オモシロくてしようがないんです。人の知らないことを知りつつある、という心地よい興奮がもたらされるというべきでしょうか。

ついでに、「詩経」旱麓篇の前後を読んでおきます。もちろんみなさんは科挙試験の勉強で知っているはずですが、いかにも古代の雰囲気のいい詩なので復習しておきましょう。

瞻彼旱麓、榛楛済済。豈弟君子、干禄豈弟。

かの旱麓(かんろく)を瞻(み)るに、榛と楛と済済(せいせい)たり。豈弟(がいてい)の君子は、干禄(かんろく)も豈弟たり。

「旱」は山の名前、「榛」(しん)は「はしばみ」、「楛」(こ)は「いばらに似た赤い木」とあります。どちらも雑木の代表として挙げられている、とされています。「済済」(せいせい)は「数多い」。「豈弟」(がいてい)は「楽しく、易いさま」。「にこにこしている」ぐらいの意味でしょうか。「干禄」は「禄を干(もと)む」。

あの旱山の麓、「かんろく」といわれるあたりをご覧なされ。
はしばみやらいばらやら、たくさん木が生えて繁っておりましょう。
にこにこしておられるよきお方は、
給料をもらおうと争う(これも「かんろく」)時にも(自然に木が生えるかのように)にこにことしておられる。

瑟彼玉瓉、黄流在中。豈弟君子、福禄攸降。

瑟(しつ)たる彼の玉瓉、黄流その中に在り。豈弟の君子は、福禄の降る攸(ところ)。

「瑟」はふつうは「楽器のおおごと」のことですが、ここでは「しっとり、綿密」という状態のオノマトペとして使われています。「玉瓉」は玉製の「ひしゃく」のこと。「黄流」(黄色い流動体)は上述のごとく祭祀用のお酒のことです。「福禄」は「福」と「禄」。

しっとりとしたあの玉のひしゃくをご覧なされ。
黄色いお酒がなみなみと、その中に酌まれておりましょう。
にこにこしておられるよき方は、
幸福と給料が自然にもらえる対象となられるのじゃ。

鳶飛戻天、魚躍于淵。豈弟君子、遐不作人。

鳶は飛んで天に戻(いた)り、魚は躍りて淵にあり。豈弟の君子は、遐(な)んぞ人と作(な)らざらん。

「遐」(か)は「はるかにいく」「遠い」という意味ですが、ここでは「何」(か)の仮借です。

トビは空高く飛び上がり、
ウオは淵で跳ねております。(それが自然のはたらきなのだ)
にこにことしておられるよき方は、
すばらしいひとにならないことがございましょうか(自然のはたらきで、きっとなられます)。

・・・同じようなので飽きてきたのでここまでとさせていただきます。以下略。

昔の解釈は、この「豈弟の君子」を周王朝の初祖である文王だ、とするのですが、古代の族長であった文王・姫昌が給料をもらったりするのはなんだか違和感があります。周の王家に仕える同族・異族の戦士たち、と考えるとすっきりしますね。・・・しませんか。

豈弟の君子の治める世に、テロがあり得ましょうか。

「政治家へのテロは許せない」と政治家が言っているので、昔と違うんだなあ、と違和感があります。「政治家へのテロは許せませんぞ」とわたしも思いますが、これは国民(ないしは超絶的な「言論」、天の声)が言うのであって、政治家の言葉ではなかったはずでは・・・。政治家へのテロが起こることには政治に責任がある。政治にしか責任は問えない。いわんや今、国民に分断と閉塞をもたらしている者は誰なのか云々。あ、やばい?

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