五尺童子皆至(五尺の童子もみな至れり)(「説苑」)
ところで子ども家庭庁は少子化対策もしているんでしたっけ。

子どもたちにも人気がありそうなのは誰だ?
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斉の桓公(在位前685~前643)が北方の山戎・孤竹族を討伐しようとして、西隣の魯の国に援兵を依頼した。
魯公が群臣を集めて会議をしたところ、臣下はみな言う、
師行数千里、入蛮夷之地、必不反矣。
師行くこと数千里、蛮夷の地に入れば、必ず反らざらん。
軍隊の行動距離は約一千キロ(一里≒405メートルで計算)にもなり、蛮人どもの棲む辺境の地に入ります。絶対に帰ってくることはできないでしょう。
そんなところに兵士を行かせるわけにはいかない。
そこで、
魯許助之、而不行。
魯はこれを助くるを許し、而して行かず。
魯は「わかりました、援兵を出させていただきまっする!」と了解しながら、結局援兵を出さなかった。
そうこうしているうちに、斉の部隊は山戎の本隊を捕捉して痛撃を加え、孤竹君は降伏して斉への臣従を誓った。
桓公は魯の態度にたいへんご立腹で、
欲移兵於魯。
兵を魯に移さんとす。
山戎攻めの軍をそのまま魯攻撃に向かわせようとしていた。
宰相の管仲が意見した。
不可。諸侯未親、今又伐違而還誅近隣、隣国不親、非覇王之道。
不可なり。諸侯いまだ親しまず、いままた違えるを伐ちて還って近隣を誅さんとすれば、隣国親しまず、覇王の道にはあらざるなり。
「ダメですよ、ダメ。各国の君主がまだ信頼してくれていないのに、さらにまた違約した者を征伐すると称して今度はすぐ隣の国を罰しようというのでは、どこの国も信頼してくれますまい。天下に指示を出そうという覇王のお考えとは思えません。
それよりも・・・」
と、管仲は言った、
君之所得山戎之宝器者、中国之所鮮也。不可以不進周公之廟。
君の得るところの山戎の宝器は、中国の鮮(すく)なしとする所なり。以て周公の廟に進めざるべからず。
「今回、殿さまのご所有に帰した山戎族の宝物は、魯など中華の国にはあまり出回っておりません。それを(魯のご先祖である)周公さまのご霊前に捧げないわけにはいきますまいなあ」
「そうじゃのう」
桓公は山戎からの略奪品を魯の王宮にあるお霊殿に奉納した。
明年起兵伐莒。
明年、兵を起こして莒を伐つ。
翌年、兵を発して、今度は西にある莒(きょ)の国を攻めた。
すると、
魯下令丁男皆発、五尺童子皆至。
魯、下令して丁男みな発し、五尺の童子もみな至れり。
魯は命令を下して二十歳以上の男子は全員徴発して、援兵にした。国民も斉に恩義を感じており、身長120センチぐらい(一尺≒22,5センチでけいさんの子どもたちまで、みんな参加してきた。
この斉の態度はたいへん正しい。孔子さまが言っているように、
聖人転禍為福。報怨以徳、此之謂也。
聖人禍を転じて福と為す。怨みに報いるには徳を以てす、これ、この謂いなり。
聖人さまは、わざわいを転じて福となすのじゃ。怨みに対しては徳を以て報いるのじゃ。これはこの事件のことを言っているようなものなのである。
「禍に復するには(怨みではなく)「直」を以てせよ」と言った孔子がこんなこと言うはずがないよなあ、と読んでいたら、案の定「孔子の言にあらざらん」という注がありました。
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「説苑」巻十三「権謀篇」より。これのどこが「権謀」であろうかと思いましたが、子どもまで来て「協力いたちまっちゅ」「わーいわーい」と邪魔になってしようがないから「権謀」なのかも知れません。
今日も訪問者が少しだけ増えています。誰かまた宣伝してくれたのかな。それともみなさんも雨でひまだったのか。