吃素看経(素を吃(く)らい経を看る)(「山居新語」)
炭水化物だけ食べているのに、太るんです。

何も食わなければいいのではにゃかろうか。
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元の時代の俗諺に言う、
窮吃素、老看経。
窮して素を吃らい、老いて経を看る。
窮乏したら粗食になり、年をとったらお経を読む。
これは、
言人強為也。
人の強いて為すを言うなり。
そうせざるを得なくなる、ということを言っているのである。
そうですか。
吾以為不然。
吾は以て然らずと為す。
わしはそうではないと思うぞ。
そうですか。
若窮時、安分不妄想。亦是好事、免致干人取厭。
窮時のごときは、分に安んじて妄想せず。またこれ好事、人を干(おか)して厭を取るを致を免かる。
窮乏した時には、自分のできる範囲のことに安んじて、要らぬ望みなど持たない。これはまた、いいことであり、他人を押し退けて嫌われるということからも免れることができる。
また、
老而行善、絶已往非僻之心。亦可為好人。
老いて善を行い、已往の非僻の心を絶す。また好人と為すべし。
年を取って、いいことをするようになり、以前の非道なねじ曲がった心とは絶縁する。またいい人だというべきであろう。
蓋做得一時好事、即做一時好人。臨死之日、雖悪人悔過、言辞頗善、可為世法者、亦当取之。
けだし、一時の好事を做(な)し得れば、即ち一時の好人と做る。臨死の日、悪人といえども悔過して、言辞すこぶる善く、世法と為すべきものも、またこれを取るなるべし。
つまるところ、その時にいい事をする人は、その時にはいい人なのだ。臨終の時に当たって、悪いやつのくせに自分の人生の過ちを悔い改めて、たいへんいい言葉を遺し、世間の模範とさえなる、というのも、この理論なのであろう。
それゆえ、
吃素看経、雖是世俗鄙見、推此以往于下等人之中、亦可免為悪好殺好貪之患、何所不可耶。
「素を吃らい、経を看る」は、これ世俗の鄙見といえども、これを推して以て下等人の中に往くに、また悪なる好殺好貪の患を為すを免るべし。何の不可なるところならんや。
このように、粗食してお経を見る」という行為は、世間の下らぬ考えではあるが、これを推論して下等なやつらの中に行ってみると、あのイヤな「コロしてしまえ、貪ってしまえ」という思想を止めることができよう。
これ(粗食と看経)のどこがおかしいのであろうか。
いいことですよね。
吾故以是説解之。
吾、ゆえにこの説を以てこれを解せり。
ということで、わたしは粗食・看経をするべし、という考えを以て、冒頭のコトワザを理解しているのである。
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元・楊瑀「山居新語」巻二より。チャイナのひとは何でもかんでも理屈っぽいですね。モンゴル時代でもそうだったんです。粗食・看経で体重が減ったり人間関係が好転するならいいのですが。カレーパン美味しうございました。