無地可失(地の失うべき無し)(「清通鑑」)
どうせ断ち切るべき鎖以外に失うものは無い我らではないか。

花の季節には遊び惚けていればいいのだ。どうせ滅びゆくのだから。
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清の年号では順治二年(1645)、南明では隆武元年になりますが、南明政権の舟山水師都督・周鶴芝が、
遣使赴日本見撒斯瑪王、訴中国喪乱、願仮一旅。
使を遣わして日本に赴かしめ、撒斯瑪王に見(あ)いて、中国喪乱に、一旅を仮りんことを願うを訴えしむ。
「撒斯瑪王」(さんしばおう)とは誰でしょうか。とりあえず「対馬藩主」と解しておきます。
使者を日本に派遣して、対馬藩主に面会させ、「中国が乱れており、一部隊をお貸し願いたい」と持ち掛けさせた。
獲允、約明年四月発兵三万。
允を獲、明年四月、兵三万を発するを約す。
認可され、翌年四月に、三万の軍勢を向かわせてもいい、という約束になった。
ほんとうですか。
周鶴芝はたいへん喜び、礼物を備えてすぐに同盟を結ぼうとしたが、
黄斌卿斥為引賊入門之挙、遂止而不行。
黄斌卿、斥(しりぞ)けて賊を引きて門に入るの挙と為し、遂に止めて行われず。
しかし、南明の大臣・黄斌卿(こう・ひんけい)がこれを拒否し、「盗人を門に引き入れる」という行動であるとして、最終的に同盟は行われなかった。
広州南明政権の永暦二年(1647)、周鶴芝はその養子らを遣わして
再赴日本乞師、乃不得其要領而還。
再び日本に赴きて師を乞わしむるも、その要領を得ずして還る。
また日本に行かせて軍を出してくれるよう要請したが、取りつく相手もなく帰還してきた。
永暦三年(1648)、南明の御使・馮京第が黄斌卿に上申して曰く、
北都之変、并東南而失之者、是則借兵之害也。今我無地可失、比之前者為不倫矣。
北都の変、東南を并せてこれを失うは、これすなわち借兵の害なり。今、我に地の失うべき無く、これを前者に比するに不倫と為す。
「不倫」は「倫せず」=仲間ではない、全く状況が違う、の意。現代用語の「不倫」はそこから派生して「仲間にできないぐらい破廉恥」という意味ですので、本来「不倫」はいわゆる「だんなに内緒よ」「女房に言うなよ」のことではないのです。
「北京が清に取られ、さらに江南地方まで奪われたのは、まさに清に兵を借りたために起こった大失敗です。しかしながら、現在我が南明国は(桂州とか台湾とか舟山列島を抑えているだけで)失うべき領土というものがございません。北京を侵略されたときとは全く状況が違っております」
と。
そりゃそうだ。失うべきものが無いのは強い。何でもありです。
そこで黄斌卿は弟と馮京第を
派赴日本長崎乞師、亦無結果。
派して日本・長崎に赴かしめ、師を乞うも、また結果無し。
日本の長崎に赴かしめて、軍の派遣を要請させたが、今回も何の結果も得られなかった。
「長崎」は「ちょうき」なんですかね。「奈賀差記」とかではないのかな。
永暦四年(1649)、舟山に南明の魯王が到着して立てこもっていたところ、
有僧人湛微来自日本、謂阮進曰、進献普陀山所蔵蔵経一部、師可得也。
僧人・湛微、日本より来たる有りて、阮進に謂いて曰く、普陀山所蔵の蔵経一部を進献せば、師、得るべきなり、と。
日本から、湛微(たんび)という僧侶がやってきて、参謀の阮進に言うことには、
「舟山列島にある普陀落寺(ふだらくじ)には、大蔵経典のセットが所蔵されております。これを献上物にすれば、日本は軍隊を出すことでしょう」
と。
ほんとうかなあ。
阮進と張名振は魯王に奏上して、馮京第らを使者として、
持蔵経乗舟赴日本乞師。行前魯王親為賜宴。
蔵経を持して舟に乗りて日本に赴き師を乞わしむ。行前に魯王親しく賜宴を為せり。
大蔵経ワンセット(すごい巻数です)を持たせ、船に乗せて日本に行き、軍隊の派遣を要請させることとした。出発前に、魯王はみずから使者たちに宴会を開いてやった。
だが、
日人鄙視湛微狡獪多変、拒絶発兵。
日人、湛微の狡獪にして多変なるを鄙視し、発兵を拒絶す。
日本人は、湛微がずるがしこくて言うことがどんどん変わるのを嫌がって、軍を派遣するのを拒絶したのであった。
かくして明清交替に日本が介入することは無くなったのである。
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「清通鑑」巻六より。当時、江戸幕府はマジメに、長崎、対馬、琉球から情報を収集して、明側に不利、という判断を下して派兵を断念したそうですが、「大蔵経」まで持ってきてくれたのにお断りするとは、バチアタリなことだなあ。でも、日本僧・湛微は如何にも詐欺師っぽいですね。すでに日本人の海外渡航が禁じられて何十年かになっているはずですが、「おれ、おれ、湛微だよ、わかる?」とか言って長崎奉行に近づいたのでしょうか。