羊虎悉無(羊虎悉く無し)(「水東日記」)
文化の日ですから、文化的な話でもしないといけないですか。ヒツジやトラの話でもいいですよね。

日本一になりそうになっているぞ。
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北宋の名臣として名高い魏公・韓琦(1008~75)さまが亡くなって、今は明の成化年間(1465~87)のはじめごろですから、だいたい400年経ちましたでしょうか。みなさんから見ると「元和偃武」とかの時代ですね。
わしはもう引退して郷里の永寧に引っ込んでおりますが、近ごろ、ここの国営倉庫管理官に韓魏公と同郷の河南・安陽の人が赴任してきたので、彼に
問韓魏公之後。
韓魏公の後を問う。
「韓魏公のご子孫はどうしていらっしゃるのかな?」と訊いてみた。
このひと、監生出身ということですから、国庫に多大な寄付をして役人の身分を買った人です。郷里の大地主一族で、だからそこらの科挙上がりの若造と違って、地域のことには詳しい。
彼の言うには、
子孫聞在浙中、安陽絶無人。雖有韓磐知県家、非其族也。
子孫、浙中に在りと聞き、安陽には絶して人無し。韓磐知県の家有りといえども、その族に非ざるなり。
「ご子孫は、浙江のどこかにお住まいとは聞きますが、安陽にはお一人もおられません。いまどこかの県令をしておられる韓磐さまのご実家はあるのですが、この一系は魏公の一族とは系統が違います」
「とはいえ、何か記念したものはあるのでしょう?」
城中有魏公廟、有司歳一祭。画錦堂記在其中、即蔡襄所書者。
城中に魏公廟有りて、有司歳に一祭す。「画錦堂記」その中に在り、即ち蔡襄の書するところのものなり。
「そうです。町の中に「魏公神社」がありまして、役所から一年に一回だけお祀りのお使いが来ます。ここには欧陽脩の「画錦堂記」の写しが保管されています。北宋末の名書家であった蔡襄の筆です」
「韓魏公とはあんまり関係ないのでは・・・」
「そのとおりです。もう「魏公」が誰かみんな理解していません」
「魏武公・曹操さまのお墓も安陽にあるんだっけ。韓魏公のお墓はどうなっているのかな?」
墳去城不及二十里、碑石羊虎悉無存者。多是近年営建趙王府時鑿之煉之尽矣。
墳は城を去ること二十里に及ばざるも、碑石・羊虎ことごとく存するもの無し。多くこれ、近年、趙王府を営建する時に、これを鑿ちこれを煉りて尽くせり。
「お墓は町から10キロぐらいのところにあるのですが、魏公の人物を伝える碑石や、お守りするヒツジやトラの石像など、もう何一つ遺っていません。しばらく前までは少し残っていたのですが、趙王さまの宿舎を建てる際にノミや薬品で削られて持ち去られましたから・・・」
「お守りのヒツジやトラは何の役にも立たなかったんだなあ。・・・ところで、ご遺骨はまだそこに遺っているのかな?」
数年前、亦経盗発、今惟荒烟野草之区而已。
数年前、また盗の発するを経、いまはただ荒烟の野草の区なるのみ。
「数年前には、墓暴きをした盗賊がいまして・・・。今はもう雑草が生え、霧の立ち込める荒れ地になってしまいましたから、おそらく・・・」
「ああ、もうよろしい」
聞之慨然。
これを聞きて慨然たり。
この話を聴いて、悲しい思いにとらわれたものじゃ。
未帰三尺土、 いまだ三尺の土に帰らざれば、
難保百年身。 百年の身を保ち難し。
已帰三尺土、 すでに三尺の土に帰るも、
難保百年墳。 百年の墳を保ち難し。
1メートルぐらいの墓穴に入って土になってしまわない間は、どんなに努力しても百年も肉体をもたせることはできない。
やっと1メートルぐらいの墓穴に入って土になれたとしても、百年もその墓をもたせる努力さえもうできない。
これは、
不知何人語。要亦至理也。愈増感乎斯言。
何びとの語なるやを知らざれども、要にしてまた至理なり。いよいよ増してこの言を感ず。
何という人のコトバなのかわからないのだが、簡潔で、しかも真理を抑えている。(魏公の子孫や遺蹟の現状を聞いて)いよいよこのコトバがしみじみと感じられるではないか。
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明・葉盛「水東日記」巻三十三より。韓魏公のように功成り名遂げ、しかも正義の何たるかを後世に示した上で、「そんじゃあのう」と悠然と三尺の土に帰った人のお墓でも四百年は保てませんでした。いわんやその文化的な遺産をや。