令和5年11月調査報告(手登根等)

11月2日(木)~3日(金)沖縄南城市等を調査

〇南城美術館 ・・・ 齋場御嶽の裏、という辺鄙なところにあるんですが、リピートしてしまう変な空間です。

向こうの森の向こうぐらいがもう齋場御嶽だ。

ドイツの三人組の「航海日記」という展示をやっていた。なんだ、これ。

これも何や?

〇にらい橋・かない橋 ・・・ 雨の中、この坂を昇ってきました。下がかない橋で上がにらい橋でした。

天気いいとほんとにきれいなところです。あんまり天気いいと歩いてなんて登れないですが。歩いて登ったひとはあまり聞いたことがありませんが。

〇手登根のアカバンタ ・・・ 佐敷側の村・手登根(てどこん)の毛(もう・遊び場)だったそうです。

下から昇れなくなっているようです。あかばんた、というのですから、下からみると赤土(じゃがる土壌というんでしたっけ)なんでしょう。

かつて大和の船は右手から湾内に入って、佐敷の港に着いたはず。佐敷は名和四郎グループ(苗代大親、尚巴志ら)の支配地であった。

〇平田大親墓 ・・・ 第一尚氏の尚巴志の弟だと思います。そのひとの墓だそうです。伝説どおりだと600年前のお墓だ。

真ん前まで行くと怖いので少し上から写真撮る。

この右手にを降りていくと平田大親家の墓がありました。これも少し斜めから撮らせていただいております。

さらに行くと手登根大親の墓もあるみたいなんですが、道が埋もれていてムリでした。
手登根側に降りて行きます。

〇手登根名幸祠など
・殿跡(東西殿)・・・祭の時には今もこの両祠に前で祭事を行うという。

左端ぐらいに写っている小さいのが手登根の村建て(創設者)である「安次富殿(あじとん・とん)の跡」。こちらのが安次富殿の前の支配者だったという「名幸の殿(とん)」。こちらは「跡」ではなく現役の祠です。

・手登根の殿 ・・・ 現役の祠です。

デイゴやクロアゲハなど、すばらしい。まだ夏ですね。

・ふぃっちゃー石 ・・・ 船の錨石だそうです。

15世紀初頭の佐敷按司の時代は、このあたりが港であったのでしょう。

〇苗代親方住居跡 ・・・ 隣の佐敷上グスクに移る前の苗代(名和四郎?)の居宅という。

帰ってきてから、この小祠の後方100メートルぐらいに「いのち石」という霊石があることを知った。

〇つきしろ社、佐敷上グスク ・・・ 苗代親方(尚思紹)、息子の尚巴志の館という。

尚巴志はここから島里大城、浦添城、首里城と移り、その間に南山、北山を滅ぼした、ということである。

このあと、南城市役所下の新開というバス停まで歩いて、やっと那覇行きバスに乗る。歩いた距離、アップダウン、当日の天候など、地元ピープルに訊いたら顔を曇らせて「そんなひとは人間にはいません」というレベルだ。

那覇に戻ってルートビアだ。

首里儀保駅から少し歩きます。

〇亀川盛武生誕地跡地 ・・・亀川盛武(せいぶ)は、王国末・維新期の政治家、ということになりますでしょうか。鉄道開通日の翌日に、明治天皇から琉球藩設置(廃国置藩)の通知をもらってきた伊江王子や宜野湾親方を三司官の一人として強く批判し、宜野湾を失脚(自殺)に追いこんだほか、琉球処分終了(廃藩置県)後には、これに反対する士族の指導者として、清朝に軍事介入を依頼するなどの反日活動を繰り返した人である。 

時代遅れの守旧派だっただけで、反帝国主義の開明派でもなんでもないのですが、でもどの時代でもどの人も、彼に与えられた条件下で精いっぱいに生きていたのだと思えば頭も下がる。

〇平等所跡地 ・・・ 平等所(ならしょ)は首里王府の裁判所です。

丸印のところに心霊・・・ではなく、史蹟標柱が立っているのがわかりますでしょうか。

琉球処分後、平等所の建物は、居抜きで演芸場「久場川芝居」になったそうです。

〇ジングスク ・・・ 浦添前田の両側に海の見える場所にあったと思われているグスクです。遺構はもちろん史蹟標柱さえ無し。

右手の水道ドームの向こう側あたりがグスクだったらしいのですが、今は何の跡形もありません。しかし、東シナ海と太平洋がどちらも見える高地なので、グスクを設ける意義はあったのでしょう。浦添城の出城的存在か。「ジン」は「知り」か「陣」かと想像するが・・・。

ええ天気になりました。

また腹ごしらえだ。1300カロリーぐらいか。

ホームへ
調査目録へ

 

WordPress.com Blog.