念弥陀十万(弥陀を念ずること十万)(「竹窓随筆」)
みなさんも一度自分でやってみましょう。

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「どうしてこんなことができないのか」
と部下や弟子を叱る前に、自分でやってみましょう。
さて、今は明代ですが、
世伝、永明大師昼夜念彌陀十万。予嘗試之。
世に伝うに、永明大師、昼夜に彌陀を念ずること十万、と。予、嘗てこれを試む。
世間で言うには、五代宋初の永明延寿大師は、一昼夜間に阿弥陀仏を念ずる(いわゆる念仏)こと十万回であった、と。ほんとかな? そこで、わしは以前、やってみました。
自今初日分至明初日分、足十二時百刻、正得十万。
今初の日分より明初の日分に至る、十二時百刻に足(みち)て、正に十万を得たり。
本日の日の出の刻限から翌日の日の出まで、一時(約2時間)で十二、一刻(約15分)で数えて百までいっぱいかけて、ちょうど十万回の念仏に成功した。
ぱちぱちぱち。
・・・正直に申し上げますと、
而所念止是四字名号。若六字、不及満数矣。
而るに念ずるところただこれ四字名号なり。もし六字なれば、満数に及ばず。
実は、念仏を唱えるのに「南無阿弥陀仏」の六字ではなく、「阿弥陀仏」の四文字の名号にした。もし六字名号なら、十万の数には足らなかった。
「なむあみだぶつ」ではなく「なんまんだーなんまんだー」というような感じでしょう。
飲食抽解、皆無間断。少間則不及満数矣。
飲食・抽解、みな間断無し。少間すればすなわち満数に及ばず。
飯食ったり水を飲んだり、トイレに行ったり、どんなときも少しも間を開けずに念仏した。少しでも間を開ければ十万には足りなかった。
睡眠語言、皆悉断絶。少縦則不及満数矣。
睡眠語言、みな悉く断絶す。少しく縦(ゆ)めばすなわち満数に及ばず。
睡眠や会話は、すべてまったく行わなかった。少しでもキモチが緩んでしまうと、十万には足りなかった。
而忙急迫促、如趕路人無暇細心切念。細念則不及満数矣。
而るに忙急迫促して、趕路の人の細心切念の暇無きが如し。細念すればすなわち満数に及ばず。
それでも忙しく急で、何者かに迫られ促される雰囲気、道を急ぐ人が、細やかな思いやりや切なる思いを抱くヒマがない同じような感じである。細やかな思いがあれば、十万に足りないであろう。
あ、そうか。
故知、十万云者、大概極言須臾不離之意、而不必定限十万之数也。
故に知る、十万と云うは、大概、須臾も離れざるの意を極言するなり、必ずしも十万の数に定限せざるなり。
これでわかりました。「十万」というのは大体の数で、少しの間も惜しまずに念仏せよ、という極端な教えであったのだ。(少しの間も手を抜かないなら)十万まで行ってなくてもいい、ということだったのだ。
こんなことを言うのは、自分が手を抜きたいからではないのだ、
吾恐信心念仏者、或執之成病、因挙吾所自試者以告。
吾恐る、信心念仏者の、あるいはこれを執りて病を成すを。因りて吾が自(よ)る所を挙げて試みる者に、以て告ぐなり。
わたしは心配しているのである。信仰心ある念仏者が、もしかしたらこの十万回念仏に終着してしまい、病気になってしまうかもしれない、と。
心配ですね。
或曰、此大師禅定中事也。則非吾所知矣。
或いは曰く、これ大師禅定中の事なり、と。すなわち吾が知る所にあらず。
ある人が言った、「10万回なんてのは、大師さまが禅定に入ってエクスタシーの中で唱えていたんだろう。人間のできるわざではないよ」と。そうかどうかは、わたしにはわかりません。
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明・雲棲袾宏「竹窓随筆」より。単純計算だと一日≒24時間=86,400秒になるので、一秒間に1.2回ぐらい唱えないと10万回まで行きません。行けるかな。若い人は一度やってみてください。年寄は止めておきなされ。冷や水じゃ。