惺惺漢無銭(惺惺の漢に銭無し)(「寒山集」)
今日も無駄遣いしてしまったなあ。

司馬牛はウシではないからワシの兄弟ではないでモー。
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「論語」顔淵篇に曰く、
ある日、孔子の学校で、
司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我独亡。
司馬牛、憂いて曰く、人みな兄弟有るに、我独り亡し、と。
司馬牛が憂鬱そうに言った。
「ひとにはみんな兄弟がいるのに、わたしにだけはいないのだ」
と。
実際にはいたらしいんですが、悪に走って絶縁してしまったのでこういった、という説が有力です。
子夏曰、商聞之矣。
子夏曰く、商これを聞けり。
その言葉を聴いた子夏が言った、
「わたしはこんなコトバを聴いたことがある。
死生有命、富貴在天。君子敬而無失、与人恭而有礼、四海之内皆兄弟也。
死生命有り、富貴は天に在り。君子は敬して失う無く、人と恭しくして礼有れば、四海の内、みな兄弟なり、と。
死んだり生きたりはさだめのあること。
財産や地位は天が決めること。
われらは言行を敬しんで失態せず、人と会ったらへりくだり、礼儀を忘れないように。
そうすれば、四方の海の中にある大陸の、人間社会のすべての人が兄弟である。
と。
君子何患乎、無兄弟也。
君子何をか患(うれ)えんや、兄弟無きをや。
というんだから、よき人なる君よ、兄弟がいないことで心配なんかしなさんな」
と言ったんだそうです。
さて、
死生元有命、富貴本由天。
死生はもと命有り、富貴はもとより天に由る。
死んだり生きたりはもともとさだめのあることで、
財産や地位は本来天の決めにしたがうだけだ。
此是古人語、吾今非謬伝。
このこれ古人の語なり、吾今謬り伝うるに非ず。
これは上にありますように、「論語」に出て来るいにしえの賢者の言葉そのままだ、
わしが今、でっちあげて伝えているのではないぞ。
これでやっと納得が行った。
聡明好短命、痴騃却長年。
聡明なるはよく短命、痴騃(ちがい)は却って長年なることを。
聡明なやつほど早く死んでしまうくせに、
あほなつは何故か長生きすることが。
死生には命が有るから、人間のあさはかな知恵では理解できない。
また、
鈍物豊財宝、惺惺漢無銭。
鈍物は財宝に豊かにして、惺惺(せいせい)の漢には銭無きを。
のろまなやつの方が財産が多くて、
(わしのような)さえてるおとこにはおカネが無い理由も。
「惺」(せい)は「心が落ち着いて、道理を覚る」という状態を表すオノマトペです。「さえざえ」というような感じでしょうか。いずれにせよ、富貴は天が決めるので、貧乏でもしようがないんです。
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「寒山集」より。これはカルヴァンのいう「二重豫定」ですよ。人間には神に救われている者と救われていない者という二種がいて、これはあらかじめ決まっている(神さまの二種類の予定なので、人間にはどうしようもない)。しかし、自分が救われているかいないかは人間にはわからず、神に救われていたことが自覚できたときに、はじめて事後的に分かるのだ・・・・・。難しいですね。しかし、おカネを持っていると鈍物で、おカネが無いと惺惺の漢であることが判明する、ということならわかりやすい。子どもにもわかりまちゅね!