10月1日 食い物につられるとは

餅餌易之(餅餌これに易(か)う)(「蘇東坡集」)

時々ちゃんとしたものを食うと美味い、というような食生活が続く。仕方がない。自分が悪いのだ。

うまいモチ食いたい。深夜の更新中、腹減った。

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わたしは宋の時代の人間ですが、みなさんは「怪石」なるものをご存じですか。「変な石?」「怪しい石?」「お化けの石?」ではありませんで、

古く「尚書」禹貢篇(夏王・禹の時代に各地から献上されてくる特産物について記したもの)には、青州(山東方面)で採れるものとして、鉛・松・怪石が挙げられています。注釈である「疏」にはいう、

怪石、石似玉者。

と。

現在わたくしの勤務しています安徽・黄州はいにしえの青州の一部ですが、町には斉安江という川が流れております。

斉安江上、往往得美石、与玉無弁。

多くは紅・黄・白の色で、石には指紋(「指上螺」)のような模様がついており、どんなに上手な人でも絵画には写せない。これこそ、

豈古所謂怪石者耶。

ところで、

凡物之醜好、生於相形、吾未知其果安在也。使世間石皆若此、則今之凡石覆為怪矣。

わたしの聴いたところでは、

海外有形語之国、口不能言、而相喩以形。其以形語也、捷於口。使吾為之、不已難乎。

(手話をイメージさせて大変おもしろいお話なのですが、この話は他書に見えないので、東坡の創作とされているようです。)

この「形が言葉の国」では、自然の必要性によって我々には及びもつかない技術が発達しているのである。

このことから思ったのだが、

天機之動、忽焉而成。而人真以為巧也。

このような美しい石を作るのも大自然のはたらきである。

雖然、自禹以来怪之矣。

ということは、この世間には、いつの時代にも、美しい石は少なく、普通の石はたくさんあったということである。人間はどうなのかな・・・。

ここまでが前置きなんです。

さて、

斉安小児浴於江、時有得之者、戯以餅餌易之。

ガキどものことですから、川におしっこしたりうんちもしたりするかも知れませんが、ちゃんとしたせんべいやだんごをもらえたならおお喜びだったことでしょう。

既久、得二百九十有八枚。大者兼寸、小者如棗栗菱芡。其一如虎豹首、有口鼻眼処、以為群石之長。

又得古銅盤一枚。以盛石。挹水注之粲然。

盧山の帰宗仏印禅師がお見えになるというので、

遂以為供。

禅師嘗以道眼観一切、世間混淪空洞、了無一物、雖夜光尺璧、与瓦礫等。而況此石。雖然、願受此供、灌以墨池水、強為一笑。

たとえ硯の余り水で真っ黒になっても、次に水で清めれば、また元の石に戻ります。

使自今以往、山僧野人、欲供禅師、而力不能弁衣服飲食臥具、皆得以浄水注石為供。蓋自蘇子瞻始。

元豊五年(1082)五月に書きました。

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宋・蘇東坡「怪石供」(怪石のお供え)(「蘇東坡集」巻二十三所収)。石でお布施をごまかそうというようにも見えますが、斉安のガキどもにせんべいやダンゴを食わせた分は元手がかかっているので、ありがたく頂戴しろということです。でも、その元手は官吏としての給料から出ているわけですから、もとは税金。許せない、わたしたちにも餅餌を食わせろと怒りの声もあがろうという、昨今のご時世でございます。

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