令和5年6月調査報告(喜友名)

令和5年6月28日(水)・・・・・・・・・・・・

平日になぜ沖縄にいるのか! とそれだけで目くじら立てるひともいるとは思いませんが、コワいので、これは幻覚だろうと申し上げておきます。また、写真は念写、またはどこかから拾ってきたものかも。著作権の処理、大丈夫か?

宜野湾の大山にあるマヤーガマに到着。〇印に謎の生物の姿が!

このような怖ろしいマヤー(ネコ)の姿が浮かび上がっているのだ!
マヤーガマは、王府時代、化け猫が近所の子供たちを食ったりしたので、名高い力士が退治した。ネコはこの先の洞窟(ガマ)に逃げ込み、さらに力士に追われてガマの中の甕に逃げ込む。力士はその甕に蓋をし、左綯いの縄で縛りつけたので、マヤーは出られなくなったという。

それから数百年、昭和後半になってマヤーガマ貝塚跡として教育委員会に発掘された。その時、割れた甕が見つかったとか職員が蓋を開けてしまったとか・・・。知らんけど。

なお、このガマの隣はそこそこ有名な(なぜ有名なのかは言いません、ぶるぶる)醴泉の塔、その向こうはもう普天間基地です。近くにほんとに有名な(なぜ有名かは言わなくてもほとんどの人は知っているとぶるぶるぶる)森川の塔があります。ぶるぶるぶる。

マヤーガマ攻略を終えて腹ごしらえだ。400グラムステーキもあったがさすがに高齢者なので200グラム。しかしごはんなども多く、どんぶりをフォークで食べるシステムだ。

喜友名の集落へ行きます。喜友名はオリンピック金メダリストの苗字で有名になりましたが、「きゆな」と読みます。実際の方言地名では「ちゅんにゃ」と発音するみたいで、上のマヤーガマも相まって「ちゅんにゃあ」というネコ(化け?)がマスコットらしい。

大山側(東シナ海側)から喜友名に昇る入口にある合同拝所。

公民館の裏にある「火ぬ神」さま。

公民館にある喜友名の石獅子(シーサー)群の案内板。集落内には綿密?な都市計画に応じて7体の石獅子があるとのこと。全部発見できるかな?

なかもと前のシーサー。顔立ちがはっきりしてますね。以前はこのあたりはガジュマルの林だったらしい。

石獅子に見えますが、これは石獅子としては番外で、ヒージャークーブという石像。明治時代に新たに「反し」が必要になったため追加されたものという。なおクーブは「こぶ」です。

めんとー前のシーサー。いい感じにだらけてますね。

メーマシチ前のシーサー。撮影者の背後はもう基地の金網です。

クラニーガー前のシーサー。ひねくれたような顔がかわいい感じである。

イリグアー前のシーサー。新城への反しだ。

トゥクイリガー前のシーサー。全体がはっきり遺っています。意外とかっこいいぞ。こんなのが王府時代の暗がりの中に立てられていたら、村外の者はびびってまぶいやられるかも。

メートーヤマ前のシーサー。これは頭部で、胴体部分と思われる石が公民館にある、とのことですが、見つけられなかった。

これで七体発見したはず。だんだんふらふらしてきました。蒸し暑くて水分も気力も徐々に・・・。

国指定史跡喜友名の泉(ガー)。かなり低地で、ここから毎日喜友名の高台に水を運ぶのが村の女たちの重労働であったという。ここから先は入れません。一般国民は入れません。

坂道を登って、隣村である新城へ。

普天間基地ゲート前近くにある新城の拝所。新城は集落ほぼ全てが基地内になってしまい、基地内にある御嶽や拝所をここで「通し」(遠くから拝むこと)する仕組みになっています(こういうのを「通し拝所」といって、別に基地内とかに関わりなく、山に登るのが大変だというような理由で沖縄にはたくさんあります。)

さらに疲れて歩幅も小さくなり、なんとか国道330号までたどりついてタクシー拾って首里へ。

ふらふらなのに、「どこをほっつき歩いているんにゃ!」と尻叩きを強要する首里ネコだ。

高齢なので気を付けないといけませんよ。

次の調査へ
調査目録へ

WordPress.com Blog.