死人手(死人の手)(「右台仙館筆記」)
ヨーロッパに「奇蹟の手」という伝説があります。何人も殺した極悪人の死体から左手を入手すると、如何なる病も治せる力を持つという。

おいらのようなごくあくにんなら、あの世でもはばを利かせるぜ。
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清の終りに近い時代のことですから、そのヨーロッパの話を聞いて作った話なんだと思います。絶対。
湖北の某という媼(ばばあ)は、乳医とか収生婆といわれる職業婦人であった。要するに助産婦さんです。若いころは他の助産婦と変わりなかったが、
一日、偶於田間拾得死人手一、携帰供奉之、嗣後其術益神。
一日、たまたま田間に死人の手一を拾得し、携え帰りてこれを供奉するに、嗣後、その術ますます神なり。
ある日、たまたま田んぼに死者の手が一本落ちていたのだそうだ。それを拾って持って帰って供養しているうちに、どんどんその医術が神がかってきたのである。
どういうところが神がかっているかというと、
有召之者、或即時而往、或遅之又久而往。其至也、必適届其婦産時、未嘗早至以待、亦未嘗有不及也。
これを召す者有れば、或いは即時にして往き、或いはこれを遅くしまた久しくして往く。その至るや、必ずその婦の産時に適届し、いまだ嘗て早く至りて以て待たず、またいまだ嘗て及ばざることあらざるなり。
いよいよお産だというので彼女を呼ぶ者があると、ある時はすぐさま出かけ、ある時はゆっくり出かけ、また、ずいぶんしてから行くこともあった。しかし、彼女が現場につくのは、いつも必ず産婦が分娩する時で、一度も早く着き過ぎて待たされたり、生まれてからやっと着いた、ということがないのである。
そして、
一入其門、即知所生之為男為女、百不一爽。
その門に一入すれば、即ち生ずるところの男なるか女なるかを知り、百に一も爽(たが)わず。
その家の門に一歩入った瞬間、これから生まれて来るのが男の子か女の子かわかるのだそうで、百回に一回も間違わなかった。
99%以上ということです。
亦有呼之不至者、則此婦必危矣。
またこれを呼びて至らざる者は、則ちこの婦必ず危きなり。
また、このばばあを呼んでも来てくれないことがあったが、その時はその産婦はもう助からない状態なのだ。
そういう人でしたが、
所至不索重酬、然竟以此起家。年八十余而卒。
至るところ重酬を索めず、然るについにこれを以て起家せり。年八十余にして卒す。
どこに行っても高額の謝礼は求めなかった。それでもとうとうその報酬で富豪となり、八十何歳かで亡くなった。
其晩年不軽為人収生。
その晩年は軽々しくは人のために収生せざりき。
年をとってからはなかなかお産の手伝いには来てくれなくなったという。
「へー、謝礼は安くてもよかったのに、だんだんお高くとまってしまったのかな」
「ああ、いやいや、そうそう、
有難産者召之、猶時為一往。
難産者のこれを召す有れば、なお時に一往を為せり。
難産でなんとかしてくれというお呼びがかかると、その時は出かけたということだ」
「へー、ところで「死者の手」はどこに行ってしまったの? まだその家にあるのかな」
「ああ、いやいや、そう、そうだよ。今となってはその行方を知る者はいないんだ」
「へー・・・」
この話は本当なのであろうか。
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清・兪樾「右台仙館筆記」巻六より。さすがは晩清の大儒、日本にも文通する弟子がたくさんいた東アジアの有名文化人です。まわりには不思議なことばかりあったんでしょうね。現代でSNSのあるすぐれた時代ならもっと有名に・・・