4月6日 今日も居眠りもあり作業なかなか進まず

為登龍門(龍門を登ると爲す)(「後漢書」)

門まで来ましたが、もうダメだ。清明のいい季節に誘われてここまで来たが、なかなか進めません。さて、この門の向こうには何があるのであろうか。

門を通り抜けたらおれがいたりするでクマー。

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後漢の桓帝の延熹九年(166)のころのことですが、

是時朝庭日乱、綱紀頽阤、李膺独持風裁、以声名自高。

士有被其容接者、名為登龍門。

登龍門というのは「龍門を登る」のであって「龍に登る門」ではありません。「龍門」は絳州・龍門にある、黄河の水が滝のようになって下っている出口で、激流の地である。

六朝期の辛氏「三秦記」にいう、

河津一名龍門。水険不通、魚鼈之属莫能上、江海大魚薄集龍門下数千、不得上。上則得龍。

というのである。
絳州は山西にあります。河南にある龍門石窟の場所とは違うので、間違って河南に行っても出世できないので間違わないでください。

「出世」といいましたか? 李膺は正義派の官僚なので宦官勢力と衝突、

及遭党事、当考実膺等。案経三府、大尉陳蕃却之。

陳蕃がいうには、

今所考案、皆海内人誉、憂国忠公之臣。此等猶将十世宥也、豈有罪名不章而致収掠者乎。

そして、

不肯平署。

霊帝愈怒、遂下膺等於黄門北寺獄。

そこで獄死させられるかと思ったのですが、

膺等頗引宦官子弟、宦官多懼、請帝以天時宜赦、於是大赦天下。

大赦によって罪を無くして釈放させ、捕まっている子弟たちがいろいろ尋問されないようにしたのです。
それによって李膺も釈放され、

膺免帰郷里。

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「後漢書」巻六十七「党錮列伝」より。あれ? 登龍門した人たちは出世しないんですか。

李膺は、このあと上の陳蕃らが起こしたクーデタの失敗で起こった第二次の党錮事件(霊帝建寧二年(169))で捕まって、死罪になります。彼の妻子は辺境に流され、

門生、故吏及其父兄並被禁錮。

ということで、李膺の門弟らはみんな自宅に監禁されました。この「党錮の禁」が後漢の国力、特に各地の名族を禁錮することで地方支配を格段に弱め、「黄巾の乱」を誘発したといわれます。
「龍」になった人たちが出世できずに罪人にされてしまうなんておかしい! いや、彼らは正義の「龍」になったのであって、「立派な人間として認められた」のが登龍門。「富や高い地位」や芥川賞などにある人が「龍」だと読み替えてしまうのは、カネや序列にしないと物事を把握できない日本人の悪いクセではないかと思います。

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