3月22日 まだ亡びてないので明日も会社がある

孤寡不穀(孤、寡、不穀なり)(「戦国策」「老子」)

「専制者はそうでない者のようにして忍び寄る」そうです。典拠不明。この間どこかで読んだんですが。こんな気の利いたの、東洋ではないと思うので、ヘーゲルかなあ・・・。

たちばなの花のように爽やかに生きたいものです。え?「腐ったみかん」のように?

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3月17日の「戦国策」の続きです。もう忘れていると思いますが、斉の宣王と賢者・顔蜀の会話でした。

顔蜀が言った、

古大禹之時、諸侯万国。何則徳厚之道得貴士之力也。故舜起農畝、出於野鄙、而為天子。

原始の時代ですから、村ごとに首長がいて、酋長みたいにして他の者より少し大きな墓を作り、耳輪とか鏡を副葬品にしていた・・・のかも知れません。
いずれにしろ、顔蜀が言っているのは「仮説」ですが、「真理」のように言うので説得力があります。・・・ありませんか。

及湯之時、諸侯三千。當今之世、南面称寡者、乃二十四。由此観之、非得失之策与。

それに、一万→三千→二十四と減ってきましたが、

稍稍誅滅、滅亡無族之時、欲為監門閭里、安可得而有乎哉。

「稍稍」(しょうしょう)は「少しづつ」「だんだんと」の意。

君主であることは大変であり、ひとたび地位を失うと徹底的にやられます。やはり士よりも貴ばれてないのです・・・。

この後、臣下に意見を聴いた人だけが名君となった、というようなお話があり、「老子」の次のコトバが引かれます。

雖貴以賤為本、雖高以下為基。是以侯王称孤寡不穀、是其以賤為邪非乎。

「不穀」=「穀物ではない」。人間は穀物でないのは当たり前ですよね。というのはしろうと。この「穀」は、「穀物はいいものである」→「穀は善である」ということから、意味は「善」です。「不穀」は「ダメ人間」ぐらいの意味でしょう。

また、顔蜀のコトバに戻ります。

夫孤寡者、人之困賤下位也。而侯王以自謂、豈非下人而尊貴士与。夫堯伝舜、舜伝禹、周成王任周公旦、而世世称曰、明主。是以明乎士之貴也。

と顔蜀が一気にまくしたてますと、斉王は・・・。

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「戦国策」斉策上より。続きはまた明日。

「老子」の引用部分について、補足しておきます。この語は、「老子」下篇第三十九章の一部分です。全文を引いておきます。少しニュアンスが違うかも。

昔之得一者、天得一以清、地得一以寧、神得一以霊、谷得一以盈、万物得一以生、王侯得一以為天下貞。其致之一也。

最後の「一」は「ワン、同一」の意味ですが、そこまでに出てくる七つの「一」は「オンリーワン、一つしかないもの、すなわち「道」」を指すとされます(昔の人がそう言ってるんです)。

天無以清将恐裂、地無以寧将恐発、神無以霊将恐歇、谷無以盈将恐竭、万物無以生将恐滅、王侯無以為貞而貴高、将恐蹶。

雖貴以賤為本、雖高以下為基。是以侯王称孤寡不穀、是其以賤為邪非乎。

が入って、さらに

故致数車、無車。不欲碌碌如玉、楽楽如石。

この最後の一文は謎めていますが、普通には「玉のように高貴なもの」と「石のように下賤なもの」が別々にされないようにする、一緒くたにする、と解されています。すなわち、玉も石も①いっしょになって社会を構成する、賢者も和光同塵してみんなと一緒に生きるんじゃ、②人民どもはできるのもできないのも、いっしょにして管理、支配するのがいいんじゃ、さて、貴殿はどちらで読みますか。「老子」をアナーキー(無政府)の書として読むか、愚民分断の支配の書として読むか、二千年ぐらいの争いを如何に解読されますかな。

決して「君主」のために説いているわけではないようですが、なんだか不気味で、人民を支配せんとする「君主」の心には響くのかも。
それにしてもやっぱり歴史の勉強はためになるなあ。こちらの方が興味深いですね。いろんなものが滅びゆくのだ。中には滅ぼしてはならないものもあったろうに。などと、今日も長くなってしまいました。うわあ、またこんな時間か。( ;∀;)

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