蓬蓬然起(蓬蓬(ほうほう)然として起こる)(「荘子」)
「蓬」は「よもぎ」ですが、違うんです。ここでは「ぼうぼう、ひゅうひゅう」というオノマトペに使われています。

カッパだ。カッパもまた精霊、北海に起こり南海に入ることもできるかも知れません。
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超古代のことです。当時は「夔」(き)がいました。「夔」は下に大きな足(「夊」(すい)。)が付いているのが特徴で、一本足の神さまともサル型のドウブツともいいますが、山野河海に棲む「精怪」(もののけ)だと理解してください。もう少し落ちぶれると「妖怪」になり、さらに落ちぶれると「おばけ」になります。要するにカッパみたいなものです。

こんなやつです。上が甲骨文で下が金文、だと思います。これだと目も一つっぽいですね。
その夔が、蚿(げん。ムカデ)に言った、
吾以一足趻踔而行。予無如矣、今子之使万足。独奈何。
吾一足を以て、趻踔(ちんとう)として行く。予(われ)、今、子の万足を使うに如(し)く無きなり。独り奈何(いかん)とする。
「おれは、一本足でぴょんぴょん、とんとんと移動する。しかしおれは、どうしてもお前さんが今しているように一万もの足をうまく使うのに敵わない。おまえさんはどうやっているのかね?」
待て待て、ムカデは足百本やろ。一万本も無いぞ。それはそのとおりで、日本で普通にいるムカデは21対42本だそうです。ただ、世界中だと300本(150対)ぐらいのがいるらしいので、百本が限界というわけではないようです。
なお、「趻」(ちん)も「踔」(とう、たく)も「踏む」という意味ですが、ここでは二文字続けて、ぴょんぴょん、というオノマトペに使っています。オモシロい語感ですね。
ムカデは言った、
不然。子不見夫唾者乎。噴則大者如珠、小者如霧。雑而下者、不可勝数也。今予動吾天機、而不知其所以然。
然らず。子、夫(か)の唾なるものを見ずや。噴すれば大なるもの珠の如く、小なるもの霧の如し。雑わりて下るもの、勝数すべからず。今、予吾が天機に動き、その然る所以を知らざるなり。
「そうでもないんですじゃよ。おまえさん、あの「つばき」というものを見たことはありませんかな。ぺっ、と吐きだすと、大きな粒は真珠のように、小さい粒は霧のようになる。それらがまじわって落ちてくるのだが、いちいち数えることなどできないのだ。それと同じように、今、わしはわしの本能で動いているだけで、どうやったら足がウマく動くか、というのはわからないんじゃ」
もぞもぞと歩いて行くうちに、ヘビに出会った。ムカデはヘビに言った、
吾以衆足行、而不及子之無足、何也。
吾、衆足を以て行くに、子の足無きに及ばざるは、何ぞや。
「わしはたくさんの足を使って移動するのに、おまえさんが足が無いのにうまく移動するのに敵わないのは、どうしてじゃ?」
ヘビは言った、
夫天機之所動、何可易邪。吾安用足哉。
夫(それ)、天機の動かすところ、何ぞ易(か)うべけんや。吾、いずくんぞ足を用いんや。
「あらまあ、本能によって体を動かして移動するのですわ。どうして他の方法に変換することができましょうか。あたし、絶対足なんか使いませんことよ」
今度は、ヘビは鎌首を挙げて空を見上げて、風に向かって言った、
予動吾脊脅而行、則似有也。今子蓬蓬然起於北海、蓬蓬然入於南海、而似無有、何也。
予、吾が脊脅(せききょう)を動かして行く、則ち有るに似たり。今、子、蓬蓬然(ほうほうぜん)として北海に起こり、蓬蓬然として南海に入り、而して有る無きに似たるは、何ぞや。
「あたしは、あたしの背骨とあばら骨を動かして移動しています。(足は無いけど)まだしも実在する物理的な力で動いていますのに、(風の)おにいさん、あなたは、ひゅうひゅうと北の海に立ちあがって、ひゅうひゅうと南の海に入っていく。そして、どうも物理的な力に頼っているわけでもなさそうじゃありませんか。どういうこと?」
楽ちんでいいわね、と言っているんだと思います。
風は言った、
然。予蓬蓬然起於北海、而入於南海也。然而指我則勝我、鰌我則勝我。
然り。予、蓬蓬然として北海に起こり、南海に入るなり。然れども我を指させば我に勝ち、我に鰌(ふ)めば我に勝つ。
「鰌」(しゅう)は「泥鰌」でしょう、「我をどじょうにするのは則ち我に勝つ」とは、おもしろい喩えですなあ、うわはわはわはは。・・・と思うのはシロウトです。プロは「鰌」(しゅう)は同音の「遒」(しゅう)の代わりに使われている、と気づきます(注釈本の力を借りて)。「遒」(しゅう)は「迫る」「強い」「踏む」という訓があります。
「そのとおり! おいらはひゅうひゅうと北の海に起こり、そして南の海に入ります。けれど、おいらは指さされればその指に負けてしまう、踏みつけられればその足に負けてしまう」
えらく弱気に出ました。・・・かと思うと、
雖然、夫折大木、蜚大屋者、唯我能也。故以衆小不勝為大勝也。為大勝者、唯聖人能之。
然りといえども、夫(それ)大木を折り、大屋を蜚ばすは、ただ我のみ能くす。故に、衆小に勝たずして大勝を為すなり。大勝を為すは、ただ聖人のみこれを能くす。
「そうではあるのですが、さて、大木を折ってしまったり、大きな家の屋根を飛ばしてしまったり、ということもおいらはします。おいら以外に誰ができるもんですか。つまり、たくさんの小さいモノには勝てないのに、大きなモノには勝つわけです。大きなモノに勝てるのは、聖人以外にありえましょうか」
つまりおいらは聖人と言っているようにも聞こえますし、その前の文からの続きを見ると、聖人はもっともすごいモノ(例えばメジャーリーグ)にも勝つ、おいらなど大したことはない(ジャイアンツ)と言っているのかも知れません。
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「荘子」秋水篇より。「秋水篇」は比喩がみずみずしくておもしろい章ですが、特にこれはオモシロいですね。風が聖人かどうか、最後が締まりがないのも「寓言」らしくて想像を駆り立てていい。すばらしい。そして、この取り合わせはなんだ。ムカデとヘビぐらいはもともとの知人でもおかしくないとは思うのですが。しかして、人間の取り入る隙間などありません。人間なんて大自然の円環の中では、大した役割など持っていないのかも。生物としては大した二酸化炭素も出てないと思います。がんばってもにぎわいも取り戻せてないかも。
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