杜其端源(その端源を杜(とざ)す)(「袁氏世範」)
また予定稿です。どこをほっつき歩いているのであろうか。

肝冷斎はどこかほっつき歩いているらしいが、おれは春が来たからもう北の国に帰るだるまー。また今年の冬まで、世界がまだ存在していたら来るだるまー。
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いにしえの聖人がこうおっしゃっている。
不見可欲、使心不乱。
欲すべきを見ざれば、心をして乱れざらしむ。
欲しいものを見なければ、(欲しいと思わないから)心を混乱させないでいることができるであろう。
と。(※)
此最省事之要術。蓋人見美食而必咽、見美色而必凝視、見銭財而必起欲得之心。
これ、最も省事の要術なり。けだし、人は美食を見れば必ず咽し、美色を見れば必ず凝視し。銭財を見れば必ず得んと欲するの心を起こす。
このコトバは、余計な事をしないための、たいへん重要な手法を教えてくれている。だいたい、人は、うまそうなものを見るとノドを鳴らすし、美しい女性を見ればじろじろ見てしまうし(ジェンダーチェックお願いします)、おカネや財産を見ればそれを欲しがる心を起こすものである。
苟非有定力者、皆不免此。
いやしくも定力有らざる者は、みなこれを免れず。
心を安定させる力を持っていない者は、だれもみなこれを免れることはできないんじゃ。
だから、見ないようにするのがよい。
ただわしの子孫であるお前たちには、がんばって、
惟能杜其端源、見之而不顧、則無妄想、無妄想則無過挙矣。
ただ能くその端源を杜(とざ)し、これを見るも顧みざれば、すなわち妄想無く、妄想無ければ過挙も無からん。
ただただ、その(欲望の出てくる)もとのところを閉ざしてしまって、美味そうなもの、いい女などを見ても二度見することがないようにすることができれば、要らんことを考えなくなる。要らんことを考えなければ、間違ったことを仕出かすこともない。
そこまで行ってほしいところである。無理かなあ。
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宋・袁采「袁氏世範」巻二「処己」より。袁采さんが袁氏の家の教えとして書き記した「おやじの小言」集です。
ところで、※の「聖人のことば」ですが、袁采さんは(おそらく意図的に)誤読しています。本来の形はこうです。
不尚賢、使民不争。不貴難得之貨、使民不為盗。不見可欲、使心不乱。
賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざらしむ。得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗を為さざらしむ。欲すべきを見せざれば、心をして乱れざらしむ。
賢者を尊敬して重用する、ということが無ければ、人民は競争などしないでいられるであろう。入手しがたいモノを貴重だとしなければ、人民は盗み(のような資本主義的行動)をしないでいられるだろう。欲しがりそうなものを見せなければ、(人民は)心を乱れさせることなくいられるだろう。
ありがたいことです。
是以聖人之治、虚其心実其腹、弱其志強其骨、常使民無知無欲、使夫知者不敢為也。
是を以て聖人の治むるは、その心を虚にしてその腹を実たしめ、その志を弱めてその骨を強からしめ、常に民をして知る無く欲する無くあらしめ、夫(か)の知者をして敢て為さざらしむるなり。
そういうことから、聖人の政治というものは、(民の)その心を空っぽにさせる。ただし、腹はいっぱいになるように食糧を得させる。その志を弱めてしまう。ただし、その生命力は強くなるよう経済を確保する。常に人民には知ることなく欲することもなくあらしめて、知者がいたとしても「まあ無理なことはしないでおくか」と思わせるようにする。
為無為則無不治。
無為を為せば治まらざる無し。
何らかの方向性を持たせることが無ければ、うまく統治できるわけである。
という、「老子」第三章、「愚民策」を唱えた有名な一章の一文を切り取って、「欲しがるものを見せない」を「欲しくなるものを見ない」と能動的に読み替えているんです。うまく切り取ったものです。「欲しがりません、見るまでは」ですね。
ちなみに、みなさん、自分がそういうふうにされてる、とは思ってませんよね。うっしっし。そういうふうにされないように気をつけてくださいね。うっしっし。
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