黄衣童子(黄衣の童子)(「続斉諧記」)
居眠りして「わ、落ちる」と思って起きました。絶対「わ」と寝言言ってたと思います。

夢は見るもんじゃない。つかみとるものだぜ・・・みたいな強い心は無い。若いころから。
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どうせ夢を見るならいい夢みたいものである。
漢の楊宝は、
年九歳時、至華陰山北、見一黄雀為鴟梟所搏、墜于樹下、為螻蟻所困。
年九歳の時、華陰山の北に至りて、一黄雀の鴟梟の搏つところと為り、樹下に墜ちて、螻蟻(ろうぎ)の困ずるところ為れるを見る。
九歳の子どもだったころ、河南にある華陰山の北側に行った時、一羽の黄色いスズメがトビやフクロウにぶん殴られて木の下に墜落して、おけらやアリにたかられて死にそうになっているのを見つけた。
「やられてまちゅね、うっしっし」
宝、取之以帰、置巾箱中。
宝、これを取りて以て帰り、巾箱中に置く。
「巾箱」は「巾」(きん。ハンカチ)を入れておく箱。あんまり大きくない。ふつうきれいな布が張られています。いかにも子どもが宝物を入れておくようなものです。
楊宝は、死にかけの鳥を拾って家に帰り、ハンカチ入れの箱に入れた。
唯食黄花、百余日毛羽成、乃飛去。
ただ黄花を食らわすに、百余日にして毛羽成り、すなわち飛去せり。
黄色い花ばかり食わせて飼っているうちに、百日余りで傷ついていた羽根が治り、やがてどこかに飛んで行ってしまった。
其夜有黄衣童子向宝再拝曰、我西王母使者。
その夜、黄衣童子有りて宝に向かいて再拝して曰く、「我、西王母の使者なり」と。
その晩のこと。黄色い服を着た子供がやってきて、楊宝に向かって二回ぺこぺこして言った、「じゃじゃーん。実は、おいらは崑崙山に住む女神・西王母さまのお使いなんでちゅ」と。
君仁愛救拯、実感成済。
君、仁愛にして救拯す、実に済を成すに感ず。
「おまえちゃまが、優しく愛情を持って助けてくだちゃり、その救済行為に実に感激いたちまちた」
感謝の意を表しています。子どもはもっと素直な言い方をするといいですね。
童子は改まると、
以白環四枚与宝、令君子孫潔白、位登三事、当如此環矣。
白環四枚を以て宝に与え、「令君の子孫潔白にして、位三事に登ること、まさにこの環の如からん」という。
白い腕輪を四個、宝にくれた。そして言うに、「おまえちゃまの子孫は潔白で罪無く、三公(大臣)の位に登るであろう。この四個の腕輪のように」と。
「そうでちゅか。それはそれは」
よかったでちゅねー。以上、おしまい。
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南朝梁・呉均「続斉諧記」より。「夢だった」とも書いてないのですが、いかにも子どもらしい夢であり、またいかにも六朝志怪らしい、不思議な余韻の残るお伽話でございます。
楊宝はその後、欧陽氏の「尚書」を学び、前漢末の哀帝・平帝の時代(前6~後5)、
隠居教授。
隠居して教授す。
郷里の弘農に隠棲して、学問を教えていた。
その後、王莽の居摂二年(7)、中央省庁から召されたが、上京の途中、
遂遁逃、不知所処。
遂に遁逃して、処るところを知らず。
とうとう逃げ出してしまい、どこにいるのかわからなくなった。
後漢が成立(25)すると出現して郷里に戻った。やがて、
公車特徴、老病不到、卒於家。
公車にて特に徴(め)さるも、老病して到らず、家に卒す。
後漢王朝から公用車差し回しで特別扱いで招致されが、老いて病気であるとして上京せず、そのまま実家で死んだ。
・・・と「後漢書」(巻五十四「楊震列伝」)に書いてあるのですが、その彼の子が「天知る、地知る・・・」で名高い楊震、そのさらに子どもの秉、もひとつ子どもの賜、さらに子ども(玄孫)の彪も三公(大臣)に至り、さらにその子の楊脩は三国・魏の大尉となった。一個足らない・・・? もともと夢だからゼロか零だったのか・・・。
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