2月17日 なぜか治っているようです

挙手大言(挙手して大言す)(「後漢書」)

肝冷斎の心身が治った・・・のだったらいいのですが、岡本全勝さんのHPのことです。おろかものには見られなくなっていたはずなのですが、みなさんが賢くなったからかも知れません。

肝冷斎、旧正月は今日にゃぞ。あぶら食ってるとさらに体重増えるにゃぞ。元気にはなれるかも知れませんが不健康に。

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後漢の永寧元年(120)のことじゃ。西南夷の撣国(たんこく)王が使者を寄こし、

献楽及幻人、能吐火、自支解、易牛馬頭。

「これはドキドキするし、おもしろい。ぜひ皇帝にもお見せしよう」

ということで、翌二年の正月、

作之於庭、安帝与群臣共観、大奇之。

ところが、その最中に、

「お待ちあれい!」

と大声を張り上げた男があった。巴郡の陳禅である。

独離席挙手大言、曰昔斉魯為夾谷之会、斉作侏儒之楽、仲尼誅之。

「夾谷の会」は春秋や史記にも記述がある大事件ですが、「孔子家語」によると、

魯定公与斉侯会於夾谷、孔子摂相事。斉奏中宮之楽、倡優侏儒戯於前。

おそらく魯の君主をからかうような内容だったのだと思います。みんなにこにこ見ていたのに、

孔子趨曰、匹夫而侮諸侯、罪応誅。於是斬侏儒、手足異処。

若いころの孔子はこんな厳しい人でした。

陳禅は、この話を持ち出してきたんです。また続けて、

孔子曰、放鄭声、遠佞人。帝王之庭、不宜設夷狄之技。

孔子のコトバは、「論語」衛霊公篇第十五にあります。ちょっとめんどくさい用語が出てきますが、味わっておきましょう。

―――顔淵が「邦を為(おさ)むる」ことを問うた。孔子は答えた。

行夏之時、乗殷之輅、服周之冕、楽則韶舞、放鄭声、遠佞人。鄭声淫、佞人殆。

これを踏まえて、陳禅は、

とでかい声で言ったのです。昭和10年ごろに天皇機関説を批判するみたいに。

皇帝は押し黙り、群臣はみんな困ったように顔を見合わせていましたところ、尚書(官房長官みたいな)の陳忠が進み出て言った、

古者合歓之楽舞於堂、四夷之楽陳於門。以詩云、以雅以南、靺任朱離。

なお、「詩経」にはこのままの詩は無いようですが、前半の「以雅以南」だけは「小雅」の「鼓鍾」に出てきます。その注にいうに、中原の音楽である「雅」に対して、南えびすの音楽である「南」だけは唱和することができるのだ、と。

つまり、えびすどもの音楽だからといって、演奏してはいけないわけではない。そして、

今撣国越流沙、踰県度、万里貢献、非鄭衛之声、佞人之比。

而禅廷訕朝政、請劾禅下獄。

「すばらしい」
「まったくだ」
「わたしもそう思っていたのだ」
とみなさんの声も聞こえてきそうですが、

勿収。

との皇帝のおコトバをいただき、陳禅は遼東の玄菟県尉に左遷されるだけで済んだのでございました。
その後、匈奴が遼東に攻め込んだ時、陳禅は恩威ふたつながら教え諭して、これを撤退させるという功績を挙げたりしています。

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「後漢書」巻四十一「陳禅等列伝」より。こういう人、後で振り返ると「いいこと言ってたんだなあ」と思うんですが、その時は
「迷惑だ」
「相手に申し訳ない」
「これからがんばってやっていこうとしておられる〇理に対して責任の取り方を訊くなんて、意地悪やわあ」
みたいに思われて排斥されていくのである。
明日から国会だそうです。政治のことばにどれほどの意味があるのか、誰も意味など求めていないのに、という時代になってきております。気楽にやれますね。(呵々)

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