挙手大言(挙手して大言す)(「後漢書」)
肝冷斎の心身が治った・・・のだったらいいのですが、岡本全勝さんのHPのことです。おろかものには見られなくなっていたはずなのですが、みなさんが賢くなったからかも知れません。

肝冷斎、旧正月は今日にゃぞ。あぶら食ってるとさらに体重増えるにゃぞ。元気にはなれるかも知れませんが不健康に。
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後漢の永寧元年(120)のことじゃ。西南夷の撣国(たんこく)王が使者を寄こし、
献楽及幻人、能吐火、自支解、易牛馬頭。
楽及び幻人の、能く火を吐き、自ら支解し、牛馬の頭を易うるを献ず。
異国の音楽と、火を吐いたり、自分で自分の手足をばらばらにしたり、ウシとウマの頭を「えいや!」で入れ換える、というようなことのできる幻術師たちを献上してきた。
「これはドキドキするし、おもしろい。ぜひ皇帝にもお見せしよう」
ということで、翌二年の正月、
作之於庭、安帝与群臣共観、大奇之。
これを庭に作し、安帝と群臣ともに観て、大いにこれを奇とせり。
幻術を宮中の儀式用の中庭で開催させ、安帝さまともろもろの臣下たちとで観覧され、その不思議で妖しいショーを楽しまれた。
ところが、その最中に、
「お待ちあれい!」
と大声を張り上げた男があった。巴郡の陳禅である。
独離席挙手大言、曰昔斉魯為夾谷之会、斉作侏儒之楽、仲尼誅之。
ひとり席を離れて挙手し大言して曰く、「昔、斉・魯の夾谷の会を為すに、斉侏儒の楽を作して、仲尼これを誅せり」と。
みんな自分の座布団に坐ってみているのに、一人だけ自分の座布団を離れ、手を挙げてでかい声で言うのだった。
「むかし(春秋時代)、斉の国と魯の国が夾谷(きょうこく)の地で君主同士の会合をしたとき、斉が侏儒(こびと芸人。以下「ピエロ」と意訳します)に歌をうたわせ(て魯公をからかっ)たので、その場にいた魯の孔子は、そいつを殺してしまったのではありませんでしたかな?」
「夾谷の会」は春秋や史記にも記述がある大事件ですが、「孔子家語」によると、
魯定公与斉侯会於夾谷、孔子摂相事。斉奏中宮之楽、倡優侏儒戯於前。
魯定公と斉侯と夾谷に会し、孔子相事を摂す。斉、中宮の楽を奏し、倡優の侏儒、前に戯れり。
魯の定公さまと斉の君主とが夾谷で会合した。このとき、孔子は(大臣ではなかったが)大臣の代理で取り仕切っていた。斉の国が宮中で流行りの音楽を演奏しはじめ、斉の歌うたいの芸人のピエロが両君主の対座する前でコントをはじめた。
おそらく魯の君主をからかうような内容だったのだと思います。みんなにこにこ見ていたのに、
孔子趨曰、匹夫而侮諸侯、罪応誅。於是斬侏儒、手足異処。
孔子趨りて曰く、「匹夫にして諸侯を侮るは、罪まさに誅(ころ)すべし」と。ここにおいて侏儒を斬り、手足異処す。
孔子が突然走り出て来て、
「下らん男が諸侯さまをバカにするようなことをすれば、罪はその場で誅殺にあたいする!」
と言って、突然ピエロを斬り殺した。しかも手足をばらばらにしてしまったのである。
若いころの孔子はこんな厳しい人でした。
陳禅は、この話を持ち出してきたんです。また続けて、
孔子曰、放鄭声、遠佞人。帝王之庭、不宜設夷狄之技。
孔子曰く、「鄭声を放ち、佞人を遠ざけよ」と。帝王の庭は、夷狄の技を設くるべからざるなり。
孔子のコトバは、「論語」衛霊公篇第十五にあります。ちょっとめんどくさい用語が出てきますが、味わっておきましょう。
―――顔淵が「邦を為(おさ)むる」ことを問うた。孔子は答えた。
行夏之時、乗殷之輅、服周之冕、楽則韶舞、放鄭声、遠佞人。鄭声淫、佞人殆。
夏の時を行い、殷の輅(ろ)に乗り、周の冕(べん)を服し、楽はすなわち韶の舞、鄭声を放ち、佞人を遠ざく。鄭声は淫、佞人は殆(あや)うし。
紀元前2000年ごろといわれる伝説の夏の時代の暦(だいたい、現代でいう旧暦です)が農業にはぴったりするので、これを使う。紀元前1600年ぐらいの殷の時代の馬車がしっかりしているので、これに乗る。紀元前1200年以降の周の「かんむり」が威厳があって派手ではないので、これをかぶる。儀式での音楽は、古風で「善にして美」な虞の時代(超古代)の素朴な音楽と舞を演奏する。そして、河南の鄭の音楽は使わない。ご機嫌取りのやつは追い出す。(これが国を治める、ということじゃ。)
鄭の音楽は装飾過多じゃ。ご機嫌取りを近づけると政治が不安定になるんじゃ。
これを踏まえて、陳禅は、
「孔子さまがおっしゃっておるではないか。「鄭の音楽は使うな、ご機嫌取りは追い出せ」と。皇帝の儀式用のお庭には、異民族のレベルの低い芸を披露するところではないぞ!」
とでかい声で言ったのです。昭和10年ごろに天皇機関説を批判するみたいに。
皇帝は押し黙り、群臣はみんな困ったように顔を見合わせていましたところ、尚書(官房長官みたいな)の陳忠が進み出て言った、
古者合歓之楽舞於堂、四夷之楽陳於門。以詩云、以雅以南、靺任朱離。
いにしえは、合歓の楽は堂において舞い、四夷の楽は門に陳(の)べたり。以て詩に云う「雅を以てし、南を以てし、靺(まつ)・任(じん)・朱離(しゅり)を以てす」と。
むかしは、(王と諸侯の間の)会合の歓楽の歌は王国の正式の建物で演奏し、舞を行ったといいます。一方、四方のえびすどもが挨拶に参ったときのうたは、王宮の門のところで見たのだそうでございます。「詩経」の中でもうたわれておりますように、「中原の上品な「雅」の楽曲、南方の情熱的な「南」の楽曲、ほかにも東の国の「靺」、南の国の「任」、西の国の「朱離」を演奏する」のでございます。
なお、「詩経」にはこのままの詩は無いようですが、前半の「以雅以南」だけは「小雅」の「鼓鍾」に出てきます。その注にいうに、中原の音楽である「雅」に対して、南えびすの音楽である「南」だけは唱和することができるのだ、と。
つまり、えびすどもの音楽だからといって、演奏してはいけないわけではない。そして、
今撣国越流沙、踰県度、万里貢献、非鄭衛之声、佞人之比。
今、撣国は流沙を越え、県度を踰えて、万里より貢献す、鄭衛の声、佞人の比には非ざるなり。
いま、撣国は、砂漠を越え、西域の地を越えて、万里の彼方より貢物を献上してまいりました。(なんといじらしいことではございませんか!)その音楽は、鄭や衛のいかがわしい音楽とは違いますし、ご機嫌取りと比べられるものではございませぬ。
而禅廷訕朝政、請劾禅下獄。
しかるに禅は朝政に廷訕(ていせん)す。請う、禅を劾して獄に下さしめんことを。
それなのに、陳禅めは、それを朝廷のまつりごとの場で、正式にそしったのでございます。どうか、禅のやつを弾劾して、投獄してしまってくださりませい!
「すばらしい」
「まったくだ」
「わたしもそう思っていたのだ」
とみなさんの声も聞こえてきそうですが、
勿収。
収むるなかれ。
「投獄までする必要はないであろう」
との皇帝のおコトバをいただき、陳禅は遼東の玄菟県尉に左遷されるだけで済んだのでございました。
その後、匈奴が遼東に攻め込んだ時、陳禅は恩威ふたつながら教え諭して、これを撤退させるという功績を挙げたりしています。
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「後漢書」巻四十一「陳禅等列伝」より。こういう人、後で振り返ると「いいこと言ってたんだなあ」と思うんですが、その時は
「迷惑だ」
「相手に申し訳ない」
「これからがんばってやっていこうとしておられる〇理に対して責任の取り方を訊くなんて、意地悪やわあ」
みたいに思われて排斥されていくのである。
明日から国会だそうです。政治のことばにどれほどの意味があるのか、誰も意味など求めていないのに、という時代になってきております。気楽にやれますね。(呵々)
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