不知本義(本義を知らず)(「墨余録」)
夜スーパーに行ったが安売りはおろか一本もありませんでした。ざんね・・・いや、よく考えたら、去年の
「おまえらは古古古米食っとれ」
「ダメだ、生産者が困るからおまえらは無し」
「食いたければカネ稼いで高いの買え」
という為政者の政策変更にはホントにびっくりして、それ以来コメは食わなくなったので恵方巻を買う必要は無いんでした。うっしっし。
だいたい、節分日の花街の遊びであった「男女が太巻きを切らずにくわえて、手を使わずに呑み込む」という遊び(そのエロチックな意味はわかりますよね)を家族団らんでやっとるわけです。ああ恥ずかしい恥ずかしいのではありませんか。いやいや、もともとの意味を忘れてしまうことはよくあることですから、恥じることはありません。

もう春ですなあ。為政者の徳によって、今週末とかは春らしい季節になるし、水不足なんかも無いのでしょう。めでたいなな。
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明の太祖・洪武帝が蘇州・松江を占領したとき、激しい略奪に、邑民(都市住民)の銭鶴皐という男が民衆を率いて立ち上がった。だが抵抗空しく、大将軍・徐達に捕らわれてしまう。銭鶴皐の堂堂とした振る舞いに感心した徐達は、銭を都の金陵(南京)に護送して、その扱いを洪武帝に預けた。
洪武帝が自らに反抗した人間を赦すわけもなく、銭は帝の御覧のもと、斬刑に処せられた。ところが―――。
臨刑白血噴注。
刑に臨んで白血噴注せり。
銭の首を斬ると、白い血が噴き出し、まわりに降り注いだのだ!
その異常な様子をみて、
太祖恐其為厲也。遂令天下設厲壇、祭銭鶴皐等無祀鬼魂。
太祖その厲を為すを恐る。遂に天下をして厲壇を設け、銭鶴皐等、祀らるる無きの鬼魂を祭らしむ。
太祖は何か「たたり」を為すのではないかと恐れて、とうとう天下に命じて、それぞれの町に「厲壇」(たたり神さまの祀り場)を設けさせ、銭鶴皐をはじめとして、誰にも祀られない霊魂への祭祀を行わせることにしたのであった。
というわけで、
邑有厲壇、自此始。
邑に厲壇有るは、これより始まる。
どこの町にも厲壇があるのは、これが起源なのである。
「天神様」とか「弥五郎神」みたいな祟り神信仰です。町ごとの厲壇、ということで「邑厲壇」(ゆうれいだん)と呼ばれた。
わたしは生まれも引退後も上海・対山町に住んでいますが、
我邑向建壇於北門外、毎逢清明、及七月望、十月朔、迎城隍神至壇賑済孤魂、謂之三巡会。
我が邑は向(さき)に北門外に壇を建て、清明、及び七月望、十月朔に逢うごとに、城隍神を迎えて壇に至りて孤魂を賑済し、これを「三巡会」と謂えり。
うちの町では、以前は北の城門の外に「祭り場」を作り、清明節(新暦だと四月五日)と七月の満月の日(十五日)、十月の新月の日(一日)になると、毎回、町の守り神さまを城内にあるその廟から「祭り場」までお連れして(要するにおみこしや山車みたいなのが出るわけです)、普段祀られることのない孤独な魂たちに振る舞いと救済を行っていた。年に三回あるので「三巡会」(三回のおめぐり祭)と呼んでいたのである。
わしの子どものころ(19世紀初め頃)は、
其随従儀仗頗盛、観者咸集。邑人捐助冥錠、堆積如山。即於壇所焚化、晩始迎神回廟。
その随従の儀仗すこぶる盛んにして、観者みな集まる。邑人の捐助せる冥錠、堆積して山の如し。即ち壇の所において焚化し、晩にして始めて神を迎えて廟に回る。
その城隍神の山車のあとについてくる行列・鼓笛隊がたいへん華やかで、これを見るのにあちこちの人が集まってきたものじゃ。町の衆が寄付した「あの世のおカネ」(紙で出来た貨幣)は、まるで山のように積まれていた。これを祭り場で焚いてあの世に送金し、夜になってやっと城隍神には自分の社に戻っていただくのであった。
ところが、
自通泰西諸洋商、地租西人、毀壇起屋、名其処一里街。
泰西の諸洋商と通じてより、地は西人に租され、壇を毀ちて屋を起こし、その処を名づけて「一里街」とせり。
欧米の西洋商人たちが来るようになってから、その土地は彼らの租借地として半永久的に与えられてしまい、彼らは祭り場を壊して家屋を立て、その一帯を「一里(いちり)街」と名付けた。
「邑厲(ゆうれい)壇」だったのを「一里街」にしてしまいました。
蓋不知本義、訛其字而仍之也。
蓋し本義を知らず、その字を訛りてこれに仍るなり。
(「たたり神を祀る」というもとの意味を知らないで、字を書き換えて、「一里」をあてはめたのである。
西洋人は街にしてしまえばいのだが、一方で「たたり神」たちをどこかで祀らないと「厲」(たたり)がある、という古老らの意見で、
今設南門外、神赴壇即回、其儀仗亦非復旧時之盛云。
今、南門外に設け、神壇に赴けば即ち回り、その儀仗もまた旧時の盛んなるにあらざるなり、と云えり。
現在では、南門の外に祭り場を移した。だが、城隍神はこの祭り場まで来ると(夜まではおらず)すぐに引き返すことになり、随従する行列も、もうむかしのような立派なものではない。以上である。
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清・毛祥麟「墨余録」巻六より。「邑厲祭り」はたたりを避けるためだから、しなければなりません。一方、恵方巻食いはもともと芸妓とやる遊び、おカネが無いとできません。コンビニなどの作ったブームには乗っとけ、は日本人の持つ社会通念だったかも知れませんが、本来わたしどもには縁の無い文化でございましたのじゃ。14日のやつも同様でありましょう。
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