2月4日 立春です。結局恵方巻は見つからず。

不知本義(本義を知らず)(「墨余録」)

夜スーパーに行ったが安売りはおろか一本もありませんでした。ざんね・・・いや、よく考えたら、去年の
「おまえらは古古古米食っとれ」
「ダメだ、生産者が困るからおまえらは無し」
「食いたければカネ稼いで高いの買え」
という為政者の政策変更にはホントにびっくりして、それ以来コメは食わなくなったので恵方巻を買う必要は無いんでした。うっしっし。
だいたい、節分日の花街の遊びであった「男女が太巻きを切らずにくわえて、手を使わずに呑み込む」という遊び(そのエロチックな意味はわかりますよね)を家族団らんでやっとるわけです。ああ恥ずかしい恥ずかしいのではありませんか。いやいや、もともとの意味を忘れてしまうことはよくあることですから、恥じることはありません。

もう春ですなあ。為政者の徳によって、今週末とかは春らしい季節になるし、水不足なんかも無いのでしょう。めでたいなな。

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明の太祖・洪武帝が蘇州・松江を占領したとき、激しい略奪に、邑民(都市住民)の銭鶴皐という男が民衆を率いて立ち上がった。だが抵抗空しく、大将軍・徐達に捕らわれてしまう。銭鶴皐の堂堂とした振る舞いに感心した徐達は、銭を都の金陵(南京)に護送して、その扱いを洪武帝に預けた。
洪武帝が自らに反抗した人間を赦すわけもなく、銭は帝の御覧のもと、斬刑に処せられた。ところが―――。

臨刑白血噴注。

その異常な様子をみて、

太祖恐其為厲也。遂令天下設厲壇、祭銭鶴皐等無祀鬼魂。

というわけで、

邑有厲壇、自此始。

「天神様」とか「弥五郎神」みたいな祟り神信仰です。町ごとの厲壇、ということで「邑厲壇」(ゆうれいだん)と呼ばれた。

わたしは生まれも引退後も上海・対山町に住んでいますが、

我邑向建壇於北門外、毎逢清明、及七月望、十月朔、迎城隍神至壇賑済孤魂、謂之三巡会。

わしの子どものころ(19世紀初め頃)は、

其随従儀仗頗盛、観者咸集。邑人捐助冥錠、堆積如山。即於壇所焚化、晩始迎神回廟。

ところが、

自通泰西諸洋商、地租西人、毀壇起屋、名其処一里街。

「邑厲(ゆうれい)壇」だったのを「一里街」にしてしまいました。

蓋不知本義、訛其字而仍之也。

(「たたり神を祀る」というもとの意味を知らないで、字を書き換えて、「一里」をあてはめたのである。

西洋人は街にしてしまえばいのだが、一方で「たたり神」たちをどこかで祀らないと「厲」(たたり)がある、という古老らの意見で、

今設南門外、神赴壇即回、其儀仗亦非復旧時之盛云。

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清・毛祥麟「墨余録」巻六より。「邑厲祭り」はたたりを避けるためだから、しなければなりません。一方、恵方巻食いはもともと芸妓とやる遊び、おカネが無いとできません。コンビニなどの作ったブームには乗っとけ、は日本人の持つ社会通念だったかも知れませんが、本来わたしどもには縁の無い文化でございましたのじゃ。14日のやつも同様でありましょう。

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