於今難行(今において行い難し)(「孔子家語」)
やる気もないのにできるわけないです。

「明日の朝は病院だから早起きしないといけないコケ!」
「こんな結論の出ないこと書いているヒマあったら早く寝るでピヨ!」
「なんというオロカ者、なんじはまことの愚者でピヨ!」
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紀元前六世紀ごろ(の設定だと思いますが)、
孔子見老耼而問。
孔子、老耼(ろうたん)に見(あ)いて問えり。
(まだ若かった)孔子が、老耼さまにお会いした時に、質問した。
老耼は春秋時代の周王国の「柱下の吏」((図書室の)柱の下の役人、図書係)であり、若い孔子が周王国に遊学したときの先生だった、なおこの老耼は哲学書「老子」の著者である、という伝説(「史記」なんかも同旨)が戦国末から漢代前半までに成立していたらしく、それに基づいた「寓言」(現実ではないお話)だと理解してください。要するにフェイクです。
甚矣、道之於今難行也。
甚だしきかな、道の今において行うことの難きや。
「なんとすごいことではございませんか、「あるべきやり方」を現代において行うことの難しさは」
直訳すると変な日本語に見えますが、漢文だからカンベンしてやってください。また、「道」は本来訳しようがない概念で、要するに「どこかに行くのにたどるべき具体的あるいは象徴的な通路」みたいなふわふわしたモノを言い、日本では「道」とそのまま言った方が伝わるような気がしますが、ここではムリに「あるべきやり方」と訳してみました。
「なにを突然言い出すのじゃ」
吾比執道。而今委質以求当世之君、而弗受也。道之於今難行也。
吾、このごろ道を執れり。而して今、質を委(い)して以て当世の君に求むるも、受けざるなり。道の今において行うこと難きや。
「わたしは最近、「あるべきやり方」を現代に執行してみようとしています。ところが、現代の君主たちに誓いのもの(「質」)を提出して自分の考えを伝えてみても、誓いのものは返却され、わたしの考えは受け入れられません。「あるべきやり方」を現代において行うのは難しい・・・ということでよろしいでしょうか」
この時の孔子のような「士」(自由民)が差し出す「誓いのもの」は雉とされているので、雉を差し出してみたのでしょう。だが、君主たちは相手をしてくれなかった。現代の主権者には何を差し出せば信用してもらえるでしょうか。
「ああそうかそうか」
老子曰、夫説者流於弁、聴者乱於辞。知此二者、則道不可以忘也。
老子曰く、それ説く者は弁に流れ、聴者は辞に乱る。この二者を知れば、すなわち道は以て忘るべからざるなり。
老子先生はおっしゃった。
「さて、議論をする者はコトバに陥ってしまう。議論を聴く者はコトバに混乱してしまう、という。この二つのことをわきまえておれば、「あるべきやり方」が忘れられることはない」
どうしてムリにコトバにするのか。コトバにするから要らない議論に陥ってしまうので、そんなことをしなくても、「あるべきやり方」を人が忘れることはない。それは「何をするか」ではなく「やり方」である。何をするにしても「あるべきやり方」で行われれば、それは人を本来の生き方に戻してくれるのじゃ・・・という一種の「政治論」なのではないかと思うのですが、本当か?
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「孔子家語」観周第十一より。周に行ったときに見聞きしたできごと、という篇です。このほかに周王朝の施設を見て感心したり説明したりしています。どうせフェイクなので「本当か?」とか考えなくていいので楽ちんですね。「孔子家語」はこういう一見した後、「本当にこれでいいの?」と訊き返したくなるようなお話が多いのですが、まあこういう考え方もあるか、と楽に考えればいいと思います。二大政党制論のように? 生活者省はどうかな?
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