1月9日 今日はウナギを食ってきました。

得魚忘荃(魚を得て荃を忘る)(「荘子」)

その時はウマかったのです。しかし食べ物は体重を増やすためにあるので、美味いものを食っても体重は増えますし、ジャンクなものを食っても増えます。体重が増えた後ではもう何を食ったかも忘れてしまっているのではないでしょうか。

ライバルのカメやカチカチだぬきに負けないように、早くゴールインしたいものでぴょん。肝冷斎が間もなくゴールインして欲界を卒業しそうだが、負けるものかでぴょん。みなさんもがんばろう。

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荃者所以在魚、得魚而忘荃。

「荃」を「やな」と訳してある例をよく見るのですが、「やな」は板を並べて流れを堰き止め、その上に魚を乗らせて捕える「簗」のことで、「荃」や竹で作った「筌」は木や竹を細く削って編んだ籠(「茶筌」をイメージしていただくと、あれのでかいやつみたいな格好です)で、それを流れる水中に沈めて魚を誘い込む漁具を言いますから、ちょっと違うもののはず。
とはいえ、ここでは魚捕り用の道具なら、どちらでも意味は通じますので気にする必要はありません。

これが「筌」だと思うのですが、「三才図会」では「推簏」(すいろく)というものだ、とされています。

代わりにこれが「罝筌」とされているのですが、これはなんだ? おじさんはとても幸せそうですが、これで魚が捕れるのか?

蹄者所以在兎、得兎而忘蹄。

「蹄」(てい)はウシやウマの「ひづめ」のことですが、ウサギ捕り用のわなのことにもなります。「はこ罠」といわれる箱の中に捕らえてしまうやつではなく、通りかかったときに足を縛り上げてしまう「くくり罠」のことです。違うかも知れませんが、ここでは「筌」と同じで、どちらであるかにはあまり意味はありません。

これは「搊蹄」(しゅうてい)という武器。ウサギの罠にしては大掛かり過ぎてコスト&パーフォーマンスが大変なことになりそうです。軍馬の足を傷つけて「蹄を搊(つまび)く」の意味のようなので、この「蹄」は「ひづめ」ですね。

ここまでは喩えです。ほんとに言いたいことは、

言者所以在意、得意而忘言。

吾安得夫忘言之人、而与之言哉。

後者の「ことば」はもう意味が伝わったあとですから、忘れてしまわれている。その場合、二人は言語としての「ことば」を交わすのではなく、にやにやしたりするだけのはずです。「うひうひ」と笑って「うへうへ」と答えるような会話だ。すばらしい。

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「荘子」外物篇より。人工知能も何かを得たら忘れてしまえばいいと思います。しかし存在意義は何にあるのであろうか。電気食うので原発再稼働の理由に使われるという存在意義もあるとか。
手を合わせて見つめるだけで愛し合える話もできるのは、「欲界」を離れて「色界」に行けば可能なはず。もう男女の別のないジェンダーフリーで食欲や性欲からは解放されている段階です。その上は「無色界」で物質性が無くなってしまいます。わたしは「色界」まではだいぶん近づいてきているとは思うのですが、読者諸姉兄におかれては如何。

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