跋扈将軍(跋扈将軍なり)(「後漢書」)
おなか苦しい。気持ち悪いです。そこをガマンして、今日も新しいページを追加しようというのだ。どんどんいい加減、といいますか取り留めもない内容になってきて当然であろう。

ベネズエラやっつけたぴょん、バッコぴょん、ぴょんぴょん。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
後漢・順帝の永和元年(136)、外戚としての地位を固めつつあった梁冀さまは、河南尹を仰せつかった。都・洛陽を含む地域の太守である。早速、
冀居職暴恣、多非法。
冀、職に居るに暴恣にして、非法多し。
梁冀の職務態度は暴力的で好き放題、法に反することが多かった。
梁冀の父・梁商は、先祖代々の外戚家の生まれながら、堅実な行政手腕で評判のあった人です。彼のもとからの友人・呂放は、河南尹の部下にあたる洛陽令をしていたが、
頗与商言及冀之短。
頗る商と言うに冀の短に及べり。
梁商と話をするとき、何度も息子の梁冀の欠点を指摘した。
「なるほど。いや、ご忠告いたみいる」
友人からの忠告を受けて、
商以譲冀。
商、以て冀を譲(せ)む。
親父の商は、息子の冀をいろいろ教え諭した。
冀はアタマに来た。
即遣人於道刺殺放。
即ち人を遣りて道に放を刺殺す。
すぐに、殺し屋に依頼して、路上で呂放を刺し殺してもらった。
そして、
恐商知之、乃推疑於放之怨仇、請以放弟禹為洛陽令、使捕之、尽滅其宗親、賓客百余人。
商のこれを知らんことを恐れ、すなわち放の怨仇を推疑し、放の弟・禹を以て洛陽令為るを請い、これを捕え、その宗親、賓客百余人を尽滅せしむ。
親父に知られることを恐れて、呂放の敵対者をでっち上げて、呂放の弟・呂禹に洛陽令になってもらい、彼に敵対者(でっち上げ)を逮捕させ、その親類と知人ら百余人をことごとく死刑にするように仕向けた。
これによって呂家に真犯人を探す必要を無くさせ、親父にも疑われずに済んだのである。
その後、梁商が死ぬと、その葬儀も終わらないうちに、父が名誉職のように務めていた「大将軍」を拝命した。冀の後任の河南尹には弟の梁不疑が就き、兄弟で宮中と首都周辺の軍事と行政権を掌握したのだ。
順帝が崩じた(144年)。次いで立った沖帝は
始在襁褓、太后臨朝、詔冀与太傅趙峻、太尉李固参録尚書事。冀雖辞不肯当、而侈暴滋甚。
始め襁褓(きょうほう)に在り、太后臨朝して、詔して太傅・趙峻、太尉・李固とともに尚書事に参録せしむ。冀、肯えて当たらずと辞するといえども、暴を侈(ほしい)ままにすること、滋(ますます)甚だし。
即位されたときおむつの中におられる赤ん坊だったので、梁冀の叔母に当たる太后が変わって朝廷に臨まれ、みことのりを下して、梁冀と、太傅の趙峻、太尉の李固に行政府の事案について共同で処理させた。冀は「そんなことはできません」と一度は辞したが、好き放題・やりたい放題はさらに甚だしくなった。
沖帝はわずか半年後、翌年崩御され、次いで冀の裁量で質帝が即位した。
帝少而聡慧、知冀驕横、嘗朝群臣、目冀曰、此跋扈将軍也。
帝、少にして聡慧、冀の驕横なるを知り、嘗て群臣に朝して冀を目して曰く、「これ跋扈将軍なり」と。
質帝は幼かったがたいへん聡明でお賢く、梁冀が驕慢で横暴なのを理解され、ある時、朝廷の場、群臣たちの前で、冀の方に目をやって、
「そこにいるのは、バッコ将軍ではないでちゅか」
と言った。
「跋扈」(ばっこ)とは(この時代までは)聞きなれぬコトバですが、「後漢書」に何か所から出て来るらしいので、この当時の「言い方」なのでしょう。「康煕字典」には
跋扈、強梁。
「跋扈」は強梁なり。
「跋扈」とは、手ごわくてわがまま、いばりくさる、という意味だ。
とあります。
「跋」(ばつ)は、本来、「踏む」「踏みつける」の意。「はびこる」や「かかと(足の後ろ側)」から文章の「あとがき」の意味にもなります。「扈」(こ)はもともと古い国名ですが、転じて「扈従」(こしょう)のように「つき従う」の意味になり、さらに「ひろく覆う」という意味も持ちます。したがって「跋扈」は「広くはびこる、踏みつける」という意味になるのでしょう。ただ「バッコ」と言うコトバが「おっぱっぴー」みたいでオモシロいので、幼い皇帝がオノマトペ的に「どすんどすん将軍」みたいに使ったのかなあ、と想像します。
なお、「跋胡」(ばっこ)という言葉があります。これは全く別のコトバで、「詩経」豳風「狼跋」の句、
狼跋其胡、載疐其尾。
狼はその胡を跋(ふ)み、すなわちその尾に疐(つま)ずく。
から取られた語で、この「胡」は「あご」、オオカミのあごは垂れさがっているので、
オオカミ(があわてた時に)は、前に進もうとすればその「胡」(あご)を踏み、退こうとすればすなわちその尻尾につまずく。
そこで、「跋胡疐尾」と熟して、「にっちもさっちもいかない」の意味に使います。
・・・これは本文には何の関係も無いことでした。年寄のひとり言だと思うて聞き流してくだされや。
冀聞、深悪之、遂令左右進鴆加煮餅、帝即日崩。
冀聞きて深くこれを悪み、遂に左右をして鴆を煮餅に加えて進めしめ、帝、即日崩ぜり。
梁冀はこのことを聞いて、深く帝を憎むようになり、とうとう侍臣たちに、茹でた麺に「ちん」の毒を加えて帝にお進めさせた。帝はその日のうちに崩御した。
「鴆」(ちん)は「玉篇」にいう、
毒鳥。食蛇。其羽画酒飲之即死。
毒鳥なり。蛇を食らう。その羽にて酒を画してこれを飲めば即ち死す。
毒鳥である。ヘビを食う。その羽でお酒をかき混ぜて、これを飲むと、すぐに死にます。
ただし、大きいとか小さいとかどんな色だとか何処に住んでいるだとか、いろいろ説があって、「康煕字典」の編者たちも
鴆同名殊類者。
鴆、名を同じくして類を殊にする者あり。
「ちん」には、名前は同じだが、どうやら違う種類のものらしいのがいる。
と言ってますので、いろいろいるのでしょう。現代の何の鳥に当たるかはつまびらかではないので、「ちん」を手に入れようと思っているみなさんもいると思いますが、手がかりにはなりますまい。ひっひっひ。
ということで、質帝を殺してしまったので、
復立桓帝。
また桓帝を立つ。
次に桓帝を即位させた。(146年)
その後も他の有力者(例えば上に出て来た大尉の李固)を暗殺し、自ら爵位や封戸を増やし、子どもたちを侯爵にし、さらに妻の孫寿を長公主(皇帝の姉妹)と同格にさせ、この孫寿というのがまたひどい女でございまして・・・と、やがて国家財政の数年分の私財を積むまでになるのでございます・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「後漢書」巻二十四「梁統列伝」より。「梁統」は後漢の建国に功績のあった梁冀の祖先(祖父の祖父)のことです。今年も「跋扈」している人たちがたくさんいるようです。(外国から来た人たちのことではありません。念のため。)
跋扈将軍に「跋扈してるなあ」と批判していると「ちん」でやられる・・・かも知れませんよ。皇帝(主権者)でさえも。
観ネコ記 令和8年1月3日
南関東地方、昨日雪になりました。戸田のやつらは全滅しただろう、わははは、と確認しに行ったのですが、みなさんそれぞれ問題は抱えながらもまだ現世におられました。

シロネコは今日のあまり動きませんが、今日はエサを絞り出そうとしているわたしの手を前足で「邪魔だ」と除けようとする意志を見せました。

しっぽを立てて頭をぶつけにくるタイミングを測る手前ミケ。

地面が雪の後で濡れているので、人間座布団に登ってくる白ミケ。

人間座布団でお眠りになる。

バグミケだ。寝ているだけです。

足が折れてから最近はシロネコの横でおとなしくしているシマネコです。まるくなって日向ぼっこ中。
明日は自由に生きたいものである。こんなに自由でなくてもいいです。ボーナス全部使ったそうです。
コメントを残す