不知是否(是なるや否やを知らず)(「括異志」)
冬眠を繰り返せば、寿命は二倍ぐらいになるかも。

生きていること、を含めて、いろんなプレゼントを既にもらっている、というのだ。本当かどうかはともかく。
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宋のころ、高閬(こうろう)という人がいました。四川の出身で、元の姓名を向良といったそうだが、
少為郡吏、抵罪亡命、遂易姓名焉。
少くして郡吏となるも、罪に抵(あた)りて亡命し、遂に姓名を易えたり。
若くして郡の役人になったが、(詳細はわかりませんが)罪を犯して他国に逃亡し、とうとう姓名を変えてしまったのであった。
雖眇一目、而神検高爽、善詩。来往江湖之間、深得養生之説、飲酒至数斗不乱。
一目眇たりといえども、神検高爽にして詩を善くす。江湖の間を来往して、深く養生の説を得、飲酒は数斗に至るも乱れず。
宋代の一斗は現代の半分ぐらい、9リットル強です。
片目が見えないのだが、精神は高尚で清々しく、詩が上手かった。長江中下流域(洞庭湖から浙江まで)を行き来して暮らし、(どうやら)深く不老長生の術を理解していて、お酒を飲ませると数十リットル飲んでも乱れるということが無かった。
許申という役人が江東転運使(物資輸送等の担当官)となって長江下流域に赴任してきた時、高閬と知り合い、頼み込んで健康ブレーンになってもらい、あちこちに視察に行くときにも同行してもらった。
ある時、
艤舟貴池亭、有九華李山人者、与高有旧、因謁。
舟を貴池亭に艤するに、九華の李山人なる者有りて、高と旧有り、因りて謁す。
安徽・池州の貴池の宿泊施設に舟を泊めたところ、九華山に棲むという李山人という人がやってきて、高閬の旧知であるといって面会を求めてきた。
そこで許申がパトロンとなって高閬、李山人と三人で宴会になったが、
使飲、各尽二斗余、殊無酔態。
飲ましむるに、おのおの二斗余を尽くすも、殊に酔態無し。
飲ませてみたところ、二人とも二斗余り(20リットル+α)を飲みつくしても、まったく酔ったというふうが無いのであった。
やがて、
高取釣竿、謂李曰、各釣一魚、以資語笑。然不得取蟹。
高、釣竿を取り、李に謂いて曰く、おのおの一魚を釣りて、以て語笑に資せん。然るに蟹を取るを得ず。
高閬は釣り竿を手にして、李山人に言うには、
「お互い、一匹づつ魚を釣って、酒飲み話に花を添えようではないか。ただし、カニを取るのは禁じ手ということにしよう」
乃鈎餌投坐前甓罅中。
すなわち餌を鈎して坐前の甓(へき)の罅(ひび)中に投ず。
そう言って、ハリにエサをつけると、座席の直前の石だたみのひび割れのところから糸を垂らした。
俄頃、李引一蟹出。高笑曰始約釣魚、今果取蟹。可罰以酒也。
俄頃に李、一蟹を引きて出だす。高、笑いて曰く、「始め魚を釣るを約するに、今果たして蟹を取る。酒を以て罰すべし」と。
すぐに、李の方に何か当たりがあって、釣り上げたところ、カニであった。高閬は大笑いして曰く、
「魚を釣ろうと約束したのに、結局のところカニを取ってしまったな。罰に酒を飲んでくれよ」
と。
高閬は、
後死于滁之琅耶山僧寺。
後、滁(じょ)の琅耶山の僧寺にて死す。
その後、徐州の琅耶山のお寺で、亡くなったらしい。
将終、以玉笛授僧曰、此開元中寧王所吹者。然不知是否、時已幾百歳矣。
終わらんとするに、玉笛を以て僧に授けて曰く、「これ開元中、寧王の吹く所のものなり」と。然れば是なるや否やを知らざるも、時にすでに幾百歳なるや。
亡くなる時、看取ってくれた僧侶に、形見に玉製の笛を与えて、曰く、
「これは唐の開元年間、玄宗皇帝の兄、寧王・李憲が愛用していたものじゃよ」
と。ということは、その笛が本当にそうであったか否かはともかく、彼の年齢はこのとき数百歳であった、ということなのだろうか。
これは許申の孫の子・許聞海の証言である。
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宋・張師正「括異志」巻第七より。なんでカニはいかんのでしょうか? 本当の話か否かはともかく、謎は深まるばかり。我らが人生の如きかも。
490万番も500万番もまぼろしかも知れません。
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