百姓感悦(百姓感悦す)(「後漢書」)
毎年冬至の日は同じこと言ってるなあ。ここがやっていないと時事問題がわからなくなってくるでぶー。

太っていると煙突で詰まる、捕まりやすい、警察に連絡されるなどの不利があるでぶー。
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前漢の終りごろ、河南・陳留に虞延という男の子が生まれました。
初生、其上有物若一匹練、遂上昇天。占者以為吉。
初めて生ずるに、その上に物の一匹の練のごとき有りて、遂に上りて昇天す。占者以て吉と為せり。
生まれてすぐのころ、赤ん坊の上に一枚の練りぎぬのようなものがひらひらしていて、やがて天に昇って行ったという。このことは、当時の占い師には吉兆とされた。
及長、長八尺六寸、要帯十囲、力能扛鼎。
長ずるに及びて、長(たけ)八尺六寸、要帯十囲、力は能く鼎を扛(あ)ぐ。
大人になると、身の丈約2メートル(一寸≒2.3センチで計算)、腰のまわりが130センチ(一囲≒13センチで計算)というでかいやつに育ち、力はでかい鉄鍋を持ち上げることができた。
がたいがいいので若くして戸牖(長安付近の地名)の亭長(宿場の警察署長)に任命されたが、
時王莽貴人魏氏賓客放縦、延率吏卒突入其家捕之。以此見怨、故位不升。
時に王莽の貴人・魏氏の賓客放縦、延、吏卒を率いてその家に突入し、これを捕らう。ここを以て怨まれ、故に位升らず。
そのころ、権力を掌握した王莽の愛人の一人・魏氏の実家の重要な客人(ブレーン)が権力を笠に着て好き放題なことをしていたので、虞延は部下たちを率いてその(客人の)家を急襲し、逮捕した。このせいで(外戚に)睨まれた。その後官位が少しも上がらなかった原因はこれであろう。
また、
性敦朴、不拘小節、又無郷曲之誉。
性敦朴(とんぼく)にして小節に拘わらず、また郷曲の誉無し。
性格は篤実で素朴、こまかい礼儀なんかには拘わらなかったから、郷里の名士たちの推薦など受けることはなかった。
王莽末、天下大乱、延常嬰甲冑、擁衛親族、捍禦鈔盗、頼其全者甚衆。
王莽の末、天下大いに乱れ、延は常に甲冑を嬰(まと)い、親族を擁衛して鈔盗を捍禦(かんぎょ)し、その全きを頼る者はなはだ衆(おお)し。
王莽の新の末には天下が大いに乱れた。その時期、虞延は常によろいかぶとを身に着け、親族を守り擁護し、盗賊や強盗の被害を防いだから、彼のおかげでなんとか無事だったという人をたいへん多かった。
後漢建国直後、細陽の県令となったが、
毎至歳時伏臘、輒休遣徒繋、各使帰家、並感其恩徳、応期而還。
歳時の伏臘に至るごとに、すなわち徒繋を休遣しておのおの家に帰らしめ、並びにその恩徳に感じて期に応じて還る。
一年のうち猛暑の時期と極寒の時期になると、いつも囚人たちを休ませて、それそれの家に帰らせてやった。囚人たちはみんなその御恩と人徳に感じ入り、決められた時期までに全員ちゃんと戻ってくるのであった。
有囚於家被病、自載詣獄、既至而死。
囚の家に病いを被る有り、自ら載せて獄に詣り、既に至りて死せり。
ある囚人は家に帰っている間に病気になってしまったが、自分をなんとか馬車に載せて、獄に戻ってきて、着いたところで死んだ。
すると、虞延は、
率掾吏、殯于門外。百姓感悦之。
掾吏を率いて門外に殯(もがり)す。百姓(ひゃくせい)これに感悦せり。
部下たちを率いて県庁の門の外で葬儀を開いてやった。これには、人民たちも感動し、大よろこびしたという。
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「後漢書」巻三十五「朱馮虞鄭周列伝」より。虞鄭はその後さらにえらくなるんですが、外戚に睨まれて最後は自殺を強要された。でぶだったのでうまく立ち回れなかったんでしょうか。哀しいことではありませんか。
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