傷財労民(財を傷め民を労(つか)らす)(「智嚢」)
賢いひとは素晴らしい。何が賢いかはなかなかわからんが。

やめてけーれ、テロテロ。浅野に比べればわしの方が賢者だろうに。
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北宋の皇祐二年(1050)、呉中から浙江にわたる地方は大変な凶作に見舞われ、日に日に食糧物価が高騰した。
時に浙西の杭州の知事は范仲淹という人であった。
呉人喜競渡、好為仏事。仲淹乃縦民競渡、太守日出宴于湖上、自春至夏、居民空巷出游。
呉人競渡を喜び、好んで仏事を為す。仲淹すなわち民に縦ままに競渡せしめ、太守日に出でて湖上に宴して、春より夏に至るまで、居民巷を空しくて出游す。
浙江地方の人たちは競艇が大好きで、また仏教の信仰が篤くて仏教行事を好んだ。范仲淹は(凶作の中)市民たちがやりがたるままに競艇を開催させ、太守自ら湖のほとりに毎日出かけて宴会を開き、競艇を楽しんだから、春ごろから夏に至るまで、市民たちは住居を空っぽにして競艇見物に出かけた。
そして散財した。
又召諸仏寺主守諭之曰、飢歳工価至賤、可以大興土木。于是諸寺工作并興。
また、諸仏寺の主守を召してこれに諭して曰く、飢歳には工価至りて賤、以て大いに土木を興すべし、と。ここにおいて諸寺工作并びに興る。
また、お寺の住職や貫主を呼び寄せて、これに告げて言った、
「飢饉の年は人件費が安くなるからのう。お寺のみなさま、この機会に建物の新築等おやりになるのがよろしかろう。材料の入手などお助けしますぞ、くっくっく」
と太守自ら言うので、お寺ではあちこち建築工事が始まった。
こうしてカネをばらまいた。
又新倉廠吏舎、日役千夫。
また、倉廠吏舎を新たにし、日に千夫を役す。
さらには、役所の倉庫や作業場や庁舎・官舎などを新築し、毎日千人の労働者を雇用した。
「みんなが苦しんでいる時に、どうしてこんなことをするのだ。怪しからん」
監司劾奏、杭州不恤荒政、游宴興作、傷財労民。
監司劾奏するに、杭州は荒政を恤せず、游宴興作して、財を傷め民を労(つか)らす、と。
監察官は弾劾した。
「杭州では凶作に対応する政策を行わず、外に出かけては宴会を開き、建築事業を次々を起こして、残された資材を減らし、人民を疲れさせているのでござりますぞ!」
と。
范仲淹は、反論した。
欲発有余之財、以恵貧者、使工技傭力之人、皆得仰食于公私、不致転徙溝壑耳。
有余の財を発して以て貧者に恵み、工技傭力の人をして皆食を公私に仰がしめ、溝壑に転徙するを致さざるを欲するなり。
「応急に必要ではない金銭の財産を使って、貧しい者に扶助し、職人や労務者には公の仕事、私の仕事で食糧を確保させ、みぞや谷川に転げ落ちてしまわないようにさせただけなのですが」
果たして、
是歳惟杭飢而不害。
この年、杭のみ飢うるも害せず。
この年、浙江では范の所管する杭州だけが、凶作の中で飢饉にまでは至らなかった。
宋の朝廷はまだ健全だったので、結果を見て判断し、范仲淹を重用していくことになる。
さて、
萬暦時吾蘇大荒。当事者以歳倹禁游船。富家児率治饌僧舎為楽、而游船数百人、皆失業流徙。
萬暦の時、吾が蘇大荒す。当事者、歳倹を以て游船を禁ず。富家児率いて僧舎に治饌するを楽と為すに、游船数百人、みな失業して流徙せり。
ついこの間、明の萬暦年間(1573~1620)に我が郷里蘇州は大凶作に陥った。この時、政治に当たった方々は、官民が倹約しなければならないという理由で、行楽のための船の航行を禁止した。蘇州では、富豪の人たちが船に乗って繰り出し、お寺で僧侶や貧しいひとたちに料理を振る舞うことを行楽としてきたのだが、それを禁止したので、行楽船に関わる数百人が職を失って流れて行ってしまった。
不通時務者類如此。
事務に通ぜざる者の類はかくの如し。
いつの時代も、今何が必要なのかを理解しない者たちは、こんなふうなのである。
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明・馮夢龍「智嚢」術智部謬数巻十四。GO TO TRAVELみたいな手法なんだと思いますが、そんな時に散財して楽しむ富家児怪しからんという気持ちもありますよね。みな貧しくなるのがいいかも。でも「怪しからん」と言って粗さがしする人たちにだけは味方したくないか。
500万超えましたが、やはり治っていません。
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