不亦悲乎(また悲しからずや)(「荘子」)
悲しいことばかりですよね。こうづけのすけも殺られた。が、あれは旧暦だった。

由比正雪め、新選組の恐ろしさを教えてやるでぶー。
ところで全勝さんところ昨日だけで3000カウントぐらい増えているでぶー。
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これは漢の時代に書かれた部分だとも言われますが、
三人行而一人惑、所適者猶可致也。惑者少也。
三人行きて一人惑うは、適かんとするところはなお致すべきなり。惑う者少なければなり。
三人で出かけて、その中の一人が道順を間違えていたとしても、行きたいところにはなんとかたどり着けるだろう。間違っている者の方が少ないからである。
しかし、
二人惑、則労而不至。惑者勝也。
二人惑えば、すなわち労すれども至らず。惑う者勝ればなり。
二人が間違えているなら、体力を費やしてもたどり着かない。間違っている者の方が優勢だからである。
ああ!
而今也以天下惑、予雖有祈嚮、不可得也。
而して今や天下を以て惑う、予に祈嚮有りといえども、得べからざるなり。
それなのに、今は天下がみんな間違っているのだ。わたしに「こちらに行きたい」と思う方向があったとしても、行くことはできないのだ。
不亦悲乎。
また悲しからずや。
なんと悲しいことではないだろうか。
まったくですね。
大声不入於里耳、折楊皇荂則盍然而笑。
大声は里耳に入らず、折楊(せつよう)・皇荂(こうか)ならばすなわち盍然(ごうぜん)として笑う。
神聖な音楽は俗人の耳には入らない。流行歌の「楊を折る」や「おおきな花」なら、「がはは」と笑う。
是故高言不上於衆人之心、至言不出俗言勝也。
この故に、高言は衆人の心に上らず、至れる言は出でずして俗言勝るなり。
これと同様に、高度なコトバはひとびとの心に理解されることはなく、真実のコトバは聞こえない、みんなのコトバが優越するから。
以二垂踵惑、而所適不得矣。而今也以天下惑。予雖有祈嚮、其庸可得邪。
二の垂踵の惑うを以て、適かんとするところを得ざるなり。しかるに今や天下を以て惑う。予に祈嚮する有りといえども、それ庸(あ)に得べけんや。
この「庸」は反語をしめす助辞。
二人のかかとの向かう方向が間違っていただけで、行くべきところに行きつけないのである。それなのに、今は天下がみんな間違っているのだ。わたしに「こちらに行きたい」と思う方向があったとしても、どうして行くことができるだろうか。
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「荘子」天地篇第十二より。このあとにハンセン氏病患者に係る哀切な一節がありますが、それは省略。
しばらく前までみんなが言うことなら正しいのかも、ぐらいに思ってましたが、この数か月でこの「荘子」の一節がこんなに理解できるようになるとは。いにしえの賢者どのに敬礼!・・・と思いましたが、敵性思想家に敬礼して国論分断してしまうといけないのでもう少し様子を見よう。
意志表示せまる声無き声を背にただ手の中に燐寸擦るのみ (岸上大作)
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