悲去存喜(悲・去・存・喜)(「履園叢話」)
昨日は全勝さんにならって不具合に。ただしHPではなく自分自身が不具合でした。今日は会社で朝からずっと居眠り。「悲」。一晩中スナック菓子などをむしゃむしゃ食べていたのでもうすぐ「去」に?まだ「存」し特に「喜」なし。

寝て✕5 は流行語大賞にならない?
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清の乾隆年間のこと、蘇州の蒋以暄は未来のことを知りたいと思っていたが、ある日、
夢至一巨第、門首牆上有四行、毎行三字相同、乃四十一也。
夢に一巨第に至るに、門首の牆上に四行有り、毎行三字相同じ、すなわち四十一なり。
夢の中で大きなお屋敷に着いた。見上げると、門の二階の欄干の上に四行の詩が書きつけてあって、どの行もその三文字目までは同じ文字になっていた。すなわち「四十一」とあった。
一行、下旁註一悲字。一行、下旁註一去字、一行、下旁註一存字、一行、下旁註一喜字。
一行には下旁に一悲字を註す。一行には下旁に一去字を註す。一行には下旁に一存字を註し、一行には下旁に一真字を註す。
第一行目には一番下の文字の横に、「悲しむ」と書き添えてあった。
第二行目には一番下の文字の横に、「去る」と書き添えてあった。
第三行目には一番下の文字の横に、「存在する」と書き添えてあった。
第四行目には一番下の文字の横に、「喜ぶ」と書き添えてあった。
つまり、
四十一 悲
四十一 去
四十一 存
四十一 喜
と縦書きで書いてあったのである。
醒後、不解何義。
醒むるの後、何の義なるやを解せず。
目が覚めた後になって考えても、どういう意味かわからなかった。
未幾、其尊甫容斎先生没。時為乾隆四十一年。
いまだ幾ばくもなく、その尊甫・容齋先生没す。時に乾隆四十一年なり。
そのあとすぐに、おやじさんの蒋容斎先生が亡くなった。時に乾隆四十一年(1776)であった。
四十一年に「悲しむ」ことになった。
服甫闋、以暄亦没。年四十一歳。
甫闋(ほけつ)に服するに、以暄また没す。年四十一歳なり。
おやじの死んだあとの三年の喪に服しているうちに、蒋以暄自身も死んでしまった。まだ四十一歳であった。
四十一歳で「去る」ことになってしまった。
以暄生前耽吟詠、多散佚、没後友人検其遺稿、僅存四十一首。
以暄生前に吟詠に耽るも、多く散佚し、没後友人その遺稿を検して僅かに四十一首を存せり。
以暄は生きていたころ詩をつくって歌うのが大好きだったが、作ったものはほとんど散佚してしまっており、亡くなった後に友人たちが、彼の書き残したものをチェックして、やっと四十一首を保存することができた。
四十一首が「保存」された。
嘉慶庚辰、以暄胞姪泰楷官起居注主事、加三級、贈以暄朝議大夫。距以暄没已四十一載。
嘉慶庚辰、以暄の胞姪・泰楷、起居注主事に官せられ、三級を加え、以暄に朝議大夫を贈る。以暄の没を距(へだ)つることすでに四十一歳なり。
嘉慶庚辰の年(1820)に、以暄の甥っ子の蒋泰楷が、皇帝の毎日の言動を記録する起居注の官の主事を命じられた。地位も三階級上がり、親戚の故・蒋以暄も朝議大夫(国会議員)の官を贈られた。以暄が死んでから、ちょうど四十一年経っていた。
四十一年で「喜び」が訪れたわけである。
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清・銭泳「履園叢話」巻二二「夢幻」篇より。よかったなあ。贈り名がもらえるなんて。
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