必見大寒(必ず大寒を見よ)(「桯史」)
寒くなってきました。でもまだまだ大雪節です。小寒・大寒の時期になっても耐えられるように暖房はまだガマンだ。大寒のころにはレーダー照射では済まなくなっているかも。

地中に入れば暖房は要らないし、誰にも見つからないし一石二鳥でモグ。
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南宋の慶元年間(1195~1201)、宮中クーデタで実権を握り、朱子学を弾圧し、金に無謀な対外戦を仕掛けた韓仛冑(かん・たくちゅう)とその弟・韓仰冑(かん・ぎょうちゅう)は、
頗与密議、時人謂之大小韓。求倢経者争趨之。
頗る密議をともにし、時人これを「大小韓」と謂えり。倢経(しょうけい)を求むる者、争いてこれに趨る。
二人でいつも秘密の相談をしていたので、同時代人は二人を「大韓」「小韓」、あわせて「大小韓」と呼んでいた。出世の早道にありつこうとする者たちは争うようにこの二人のもとに走って取り入っていた。
ある日、宮中で宴会があって、俳優(芸人)が呼ばれて寸劇を演じた。
優人有為衣冠到選者、自叙履歴材芸、応得美官、而留滞銓曹、自春徂冬、未有所擬、方徘徊浩歎。
優人、衣冠して選に到る者と為る有り、自ら履歴材芸を叙し、まさに美官を得べきも、銓曹(せんそう)に留滞して、春より冬に徂くも、いまだ擬するところあらず、まさに徘徊し浩歎す。
芸人の一人は、知識人のみなりをして試験に合格した者に扮していた。彼は、自分の履歴や才能・芸を述べ、「いい官職に就けてもらえるはずだが、人事院で検討常態になったまま、今年の春からもう冬になってしまったのに、まだ就職先が決まらない」と言って、ぐるぐる歩き回り、大きな声でためいきをついた。
又為日者弊帽持扇過其旁、遂邀使談庚甲、問以得禄之期。
また、日者(にっしゃ)と為りて弊帽に扇を持ちてそのかたわらを過ぎるあり、遂に邀(むか)えて「庚甲」を談ぜしめ、問うに得禄の期を以てす。
もう一人の相方は、「日取り占い師」に扮して、破れた帽子をかぶり扇を手にして(占い師はそんな恰好をしていたのでしょう)、一人目のやつのかたわらを通り過ぎた。そこで、一人目のやつは占い師を呼び止め、「庚(かのえ)とか甲(きのえ)とかの日取りのよしあし」と説明させ、自分が就職して給料をもらえるのはいつごろか、を尋ねた。
日者厲声曰、「君命甚高、但於五星局中、財帛宮若有所礙。目下若欲亨達、先見小寒、更望成事、必見大寒可也」。
日者、厲声に曰く、君命甚だ高し、ただ五星局中において財帛宮に礙(さまた)ぐるところ有るがごとし。目下にもし亨達せんと欲せば、まず「小寒」を見、さらに事を成すを望めば、必ず「大寒」を見て、可なり、と。
占い師は大声で(それぐらい自信を持って)言った。
「あなたさまの運命は大変高い地位を望めますそ。・・・ただ、五つの大きな運勢の中で、財産問題のところに少し問題が残っておるようです(カネが無いのであちこちにばらまけないので、時間がかかっているのでしょう、みたいな意味があると思います)。
出世の糸口を見つける生きは・・・まずは「小寒」の節句に出会うことですな。その後、さらに大きな処遇を求めるならば、必ず「大寒」に出会えば、オーケーです」
蓋以寒為韓、侍燕者皆縮頸、匿笑。
けだし、「寒」を以て「韓」と為し、侍燕者みな首を縮め、匿(かく)れて笑える。
つまり、「寒」を「韓」に読み替えろ、というコントである。宴会に出ていた者は、「やばい!」とみんな首をすくめてびびりながら、隠れてニヤニヤしていた。
しかし、宴会に出ていた韓仛冑、韓仰冑兄弟は特に気づくことはなかった。
わしはそのころ、宮中の宴会に出られるような身分ではなく、安徽の祁門に所用で行ったことがあった。夜、宿舎で休んでいたところ、
見壁間一詩。
壁間に一詩を見る。
壁に一篇の詩が書きつけられているのを見つけた。
読んでみますと、
蹇衛衝風怯暁寒、也随挙子到長安。
蹇して衝風を衛るも暁の寒きに怯え、また挙子に随いて長安に到る。
足を引きずりながら向かい風の中をなんとかここまでやって来たが、夜明けの寒さに怯えています。また今回も、地方試験に受かった人たちと一緒に長安(都、ぐらいの意味です。宋の都は開封)に行くことになった。
路人莫作親王看、姓趙如今不似韓。
路人なすなかれ、親王と看んことを。姓趙なるは如今、韓のごとからず。
旅の途上で出会うみなさま、どうぞわたしのことを「親王さま」などと思わないでくだされよ。たしかに姓は「趙」だが、現代では「韓」のような力は無いのですから。
「ふむふむ」
漫味語意、乃天族之試南宮者所作。旁有何人細書八字。墨蹟尚新。
漫りに語意を味わうに、すなわち天族の南宮に試みんとする者の作るところならん。かたわらに何ぴとか、八字を細書す。墨蹟なお新たなり。
ぼんやりと詩の意味を味わってみると、どうやら皇族で、科挙の最終試験を受験しに行こうとしている方が作ったもののようである。その傍らには、これは一体だれが書いたのであろうか、八文字の小さな書き込み(落書き)があった。墨のあとは、さっき書いたかのように新しい。
霍氏之禍、萌于驂乗。
霍氏の禍は、驂乗(さんじょう)に萌す。
漢の時代、外戚として権力を振るった霍光(かく・こう)の一族がみんな誅殺されたのは、もとはといえば霍光が宣帝の馬車に同乗した(時に厳格な態度を取った)ことに始まったのだ。
と。(権力の一番ある時に、失敗のタネが蒔かれている、というような意味です。)
思うに、
優語所及、亦一驂乗也。蒙其指目者、反懜然若不少悟。何耶。
優語の及ぶところ、また一驂乗なり。その指目を蒙る者、反って懜然として少悟せず。何ぞや。
芸人の言葉が風刺していたことは、(皇帝の権限を盗んで自由に振る舞っていたのであるから)「馬車に同乗して厳格な態度を取った」ことの一種であろう。ところが、その風刺を受けていたひと自身は、なぜだかぼんやりとして少しも理解しなかったのだ。
どういうことだ?
いわゆる「正常化バイアス」だと思います。
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南宋・岳珂「桯史」巻第五より。これ、安徽の旅館で「何ぴとか細書して・・・」という落書きを見たとありますが、おそらく筆者が自分で書いてきたんだと思います(実際にはこの八字は古語(昔からのことわざ)なので、ほんとは書いてさえ無かったかも知れません)。
「なんだと!」「説明してほしいものですわね」「叩いてマウントを取らねば」
筆者は南宋初期の忠臣・岳飛さまの孫とはいえ、いかにもオールドメディアみたいな自作自演・でっち上げです。たしかに権力掌握の方法に正当性は無いとはいえ、曲りなりにも金に宣戦して南宋のナショナリズムを煽った韓托冑政権の足を引っ張ろうとするとは、国賊です。反〇です。SNSで・・・と思っているうちに、史弥遠のクーデタで韓仛冑が暗殺されるとまた手のひらを反すんですよね、宋のやつらは。怪しからんなあ。膺懲?せねば?ならぬかも? (←このように言いたいことをそのまま言えず、複雑な表現をせねばならない時代になったのだ、ということですぞ。全勝さんみたいに(HPが動かないだけで自らの意志ではないとはいえ)沈黙(笑)を守っているべきかも。うっしっし。)
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