帝遂為止(帝、ついにために止む)(「後漢書」)
自己分析するに、暖房具屋さんに行って店の人と話したり、大きいものなら持ってきてもらう算段をせねばなりません。それができない、あるいはぎりぎりまでしたくない、ということであろうと思います。子どもみたいですが、少年時代から会社時代を通じて、きちんと人と話す訓練を受けてないのでこんな体たらくに。もうダメだ。

カキが当たるとカニさえ潰れる。いわんや頭を天子の車輪に引かれるをや。
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後漢に申屠剛、字は巨卿は、扶風・茂陵の人、七代前の祖先・申屠嘉は前漢の文帝の丞相を務めていたという名門の出身である。
質性方直、常慕史鰌、汲黯之為人。
質性方直にして、常に史鰌、汲黯の人となりを慕う。
正確はまっすぐでしゃちほこばり、いつも「論語」に出る史鰌や前漢の汲黯の人となりに憧れていた。
史鰌(しゆう)は字・子魚、衛の国の大夫(重臣)であった。「論語」衛霊公篇第十五にいう、
子曰、直哉、子魚。邦有道如矢。邦無道如矢。
子曰く、直なるかな、子魚。邦に道有れば矢の如し。邦に道無けれども矢の如し、と。
孔先生がおっしゃった。
「まっすぐなやつではないか、史鰌(字・子魚)は。その国に道義と秩序があるときは矢のようにまっすぐに行動する。その国が道義と秩序を失っても、やはり矢のようにまっすぐに行動するのだから」
汲黯(きゅう・あん)は前漢・武帝のときのひと、直諫(直接的な諫言)を行い、
時人謂之汲直。
時人これを「汲直」と謂えり。
同時代人たちは、彼を「まっすぐ汲さん」と呼んだ。
武帝は宰相の公孫弘と会うときは冠もつけずにくつろいで対処したが、汲黯が来るというと冠の紐を結び直したという。晩年は武帝とその側近たちに忌まれて地方官となったが、ここでも大きな功績を遺し、在官のまま卒した。(「漢書」汲黯伝)
こういう人たちを慕っていたのである。
後漢の光武帝に仕えて諫官となった。あるとき、光武帝が出游しようとしたところ、
剛以隴蜀未平、不宜宴安逸豫。
剛、隴・蜀のいまだ平らがざるを以て、宴安逸豫すべからずとす。
申屠剛は、四川地方がまだ平定されていないことから、のんびり安楽に過ごしたり、仕事をさぼって楽してはいけない、と諫言した。
光武帝としては楽しむというより、地方の状況を確認するための巡検であったから、
諫不見聴。
諫、聴かれず。
諫言は聴いてもらえなかった。
すると、申屠剛は、
遂以頭軔乗輿輪。
遂に頭を以て乗輿の輪の軔(じん)とす。
「軔」(じん)とは、楚辞に出る言葉で
止輪木也。
輪を止めるの木なり。
車輪を止めるための木である。
とのこと(王逸「楚詞」注)。
申屠剛は自分の頭を、車輪止めのように、帝の乗る車の車輪の下に突っ込んでしまった。
帝遂為止。
帝、遂にために止(とど)む。
帝は、とうとうこのために出発を取りやめた。
苦虫を嚙み潰したか苦笑したかわかりませんが、出游を中止したのでした。
以後も、
以数切諫失旨、数年、出為平陰令。
しばしば切諫(せっかん)して失旨せしを以て、数年、出でて平陰令と為る。
何度か切実な諫言を行ったが、皇帝のお気持ちにそぐわなかったので、数年後には、中央を離れて山東・平陰の県令となった。
後、病いを以て官を去り、家で死んだ。
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「後漢書」巻二十九「申屠剛等伝」より。車輪の下に頭突っ込むとは子どもみたいですね。子どもがそんなことしてはいけませんが、大人なので、ほんとに出発はしないだろう、と、ちらちら見ながらやってたんだ・・・と思うんですが、そんなちっぽけな人ではなかったのかも。
悪口言うと全勝さんのHP治ると思うんですよね。よーし、そろそろほんとに言うか(ちら、ちら)・・・今日のところは止めておいてやるぜ。
観ネコ記 令和7年12月6日
今日は先週医療センターに行ったハチの行方は不明です。他のえさやりの人に聴こうと思ったんですが、どなたとも出会わず。インフルか何かでみんな休んでいるのかも。
白ミケに人間座布団にされる。しかも指咬まれた。
バグパイプ猫は目が悪いが、しりたたきのおっちゃんが来るとたたかれに来る。 たたくとごろごろし始める。
先週人間不信になったという手前ミケだが、今日は他のえさやりさんが来なくて腹が減っているのか、寄ってきた。こいつはしりたたきもすぐ反応するが、顔ぐりぐりが大好きです。駐車場横のしにかけシロは今日もしにかけていますが生きていました。
ウワサになっていたキジ猫にも遭遇。エサを与えるが、手前ミケが出てきてメシ寄こせとうるさいので写真は取れませんでした。
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