何従至於此(何に従りてかこれに至れる)(「淮南子」)
ほんとに何でこんなに眠いのか。悪の組織(ショッカーなど)に改造されたと考えれば辻褄は合うが、まさか・・・。

殴られたので眠くなったのかも知れません。
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光耀問於無有、曰、子果有乎、其果無有乎。
光燿(こうえい)、無有(むゆう)に問いて曰く、「子果たして有るか、それ果たして無きか」と。
「ぼんやり光(ひかる)」が「有ること無い」に訊いた。
「おまえさんは実際のところ、有るのかね、無いのかね」
無有弗応也。
無有応じず。
「有ること無い」は答えなかった。
「むむむ」
光燿不得問、而就視其状貌。
光燿は問うを得ず、その状貌を就視す。
「ぼんやり光」は訊いても答えてくれないので、相手の様子をじっと眺めた。
その様子は、
冥然忽然、視之不見其形、聴之不聞其声、搏之不可得、望之不可極也。
冥然たり忽然たり、これを視るもその形を見ず、これを聴くもその声を聞かず、これを搏つも得るべからず、これを望むも極むべからざるなり。
ほとんど見えなかったり、ふっと消えてしまったり。よくよく見ても姿はよく見えない。よくよく聴いても声はよく聞こえない。そこで「ぼかん」と殴ってみたが、すかっと何にも当たらない。あちらからこちらから見てみたが、とうとう全体像がわからない。
突然「ぼかん」と殴ってはいけません。けんかになってしまいます。しかしスカっとなってよかった。
光燿曰、貴矣哉。孰能至于此乎。予能有無矣。未能無無矣。及其為無無、又何従至於此哉。
光燿曰く、「貴なるかな。孰(た)れか能くここに至れるか。予は能く無きこと有り。いまだ無きこと無きは能わず。その無きこと無きを為すに及びては、また何に従(よ)りてここに至れるや」と。
「ぼんやり光」は言った。
「これはすばらしいぞ。いったいこれまで誰がここまで突っ切ったか。わしは無い時がある。しかし、まだまだ無いことさえ無い、ということはできない。無いことが無い、ということができるとは、いったいどうやってここまで突っ切れたのであろうか」
このことについて、老子はおっしゃっている、
無有入于無間。吾是以知無為之有益也。
有る無ければ無間に入る。吾、是を以て為す無きの益有るを知れり。
有ることが無いなら、隙間の無いところにさえ入り込める。わしはこれによって、何もしないでいるとどんどん有利になっていく、ということを知ったのである。
と。
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漢・劉安等「淮南子」巻十二「道応訓」より。最後の「老子」の言葉は
「何言ってるんだ、このじじい」
「どうしようもない老害ね」
「若者の足を引っ張るとは」
と思うかも知れませんが、「老子」第四十三章の言葉です。全文を引くと、
天下之至柔、馳騁天下之至堅、無有入無間。吾是以知無為之有益。不言之教、無為之益、天下希及之。
天下の至柔は天下の至堅を馳騁(ちてい)し、有る無きは無間に入る。吾は是を以て為す無きの益有るを知る。不言の教、無為の益は、天下これに及ぶは希なり。
世界でいちばんふにゃふにゃしたやつは、世界でいちばんかちんこちんのやつを好き放題に走り回らせることができる。存在しないやつは隙間の無いところに入り込める。わしはこれによって何もしないでいるとどんどん有利になっていく、ということを知ったのである。
何も言わない教え、何もしないことの利益---は、世界にこれと同等の教えや利益は滅多にない。
「淮南子」には「于」と「也」が加わってますが、意味に影響はないと思います。うーん。ええコトバやなあ。不言、無為。何も言わず、何もしない。会議中は寝ることが正当化される。
もしかしたら、この人も不言の教え、無為の益を悟ったのかも。
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