12月4日 忘年会に行ってきましたが寝ていた 

賜白金千両(白金千両を賜る)(「唐才子伝」)

起きて帰ってきたら、寒いですね。毎年暖房問題を何とかしたいと思うのだが、あと一日あと一日とガマンしているうちに何とかなったんです。これまでは。

一寸法師がこそこそしてくすぐったい。しかし圧倒的に当方が道義においても実力においても勝っているから、しばらくガマンしてれば向こうから詫びを入れてくるのでは・・・。

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唐末の張蠙(ちょう・ひん)は河北・清河の人、若くして

白日地中出、黄河天上来。

という北地の荒漠たる風土を詠んで名を知られたが、

以家貧、累下第、留滞長安。

詩を作って嘆いて曰く、

月裏路従何処上、江辺身合幾時帰。

十年九陌寒風夜、夢掃蘆花絮客衣。

暖房も無くて寒かったのでしょう。
乾寧二年(895)にようやく進士となり、いくつかの職を経て四川・犀浦の県令に赴任しているうちに唐朝が滅亡(907)、そのまま四川で独立して「前蜀」を建てた王建のもとで地方官となった。二代目の風流天子・王衍(在位918~925)が成都市内の大慈寺に立ち寄った時、

見壁間題。

「どれどれ・・・」

牆頭細雨垂繊草、水面回風聚落花。

という成都のうら寂しい春の景を描いた聯である。

「むむ。やるではないか」

愛賞久之、問誰作、左右以蠙対。

王衍は張蠙の文章力を認めて、詔勅の案を作る掌制誥に任じようとしたが、丞相の李光嗣が諫めて、

以其軽傲。

それで断念して

止賜白金千両而已。

張蠙はとうとうその才能を現実社会に活かすことはできなかったのである。
いやいやわたしなどもうこれだけいただければ十分でございますが。

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元・辛文房「唐才子伝」巻十より。世の中カネが一番です。コメ買わないからお米券要りませんわー。

自分では新聞読まないんで、全勝さんのHPが治らないと情報から疎外されたままで困っています。まあ情報ぐらいなくてもいいか。

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