皆臥自搏(みな臥して自ら搏つ)(「後漢書」)
久しぶりでぺこぺこしまくり。

仕事と思えばいくらでも折る腰はございまする。みたいな感じ。
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後漢の趙熹、字・伯陽は河南・南陽のひとである。王莽の時代に名を知られはじめた。
少有節操。
少(わか)くて節操有り。
若いころからスジを通すといわれていた。
従兄為人所殺、熹年十五、常思報之。乃挟兵結客、後遂往復仇。
従兄、人の殺すところと為り、熹年十五、常にこれに報ぜんことを思う。すなわち兵を挟み客を結び、後ついに往きて復仇す。
いとこが人に殺された。趙熹はまだ十五歳であったが、報復することをいつも考え、武器を持ち侠客たちと親交を結び、やがてとうとう復讐しに行った。
ところが、
仇家皆疾病、無相距者。熹以因疾報殺、非仁者心、且釈之而去。
仇家みな疾病、相距する者無し。熹、疾に因りて報殺するは仁者の心に非ざるを以て、しばらくこれを釈して去る。
かたきの家はみんな流行り病で倒れており、抵抗できる者がいなかった。趙熹は病気中に報復して殺すのは立派な人間の心がけではないと考え、この時点では報復せずに去ることにした。
顧謂仇曰、爾曹若健、遠相避也。
顧みて仇に謂いて曰く、爾曹もし健やかになれば、遠く相避けよ、と。
かたきの方を顧みて言った、「おまえたち、健康になったら、遠くへ行っておれから逃げることだな」と。
仇皆臥自搏。
仇、みな臥して自ら搏(う)つ。
かたちたちは、みんな土下座して自分を殴った。
「自分を殴った」と直訳しましたが、「後漢書注」によればこれは「叩頭」のことである、がんがんと地面にぶつけるぐらい頭を下げたのだ、とのこと。
後病癒、悉自縛詣熹、熹不与相見、後竟殺之。
後、病瘉え、悉く自ら縛して熹に詣でるに、熹ともに相見ず、後ついにこれを殺す。
その後、彼らは病気が治ったので、みんな自分を縛って(罰を受けることを覚悟し)趙熹のところに挨拶に来た。趙熹は誰一人とも面会しなかったが、その後こいつらを殺した。
後、光武帝に仕えて大尉・関内侯に至った。
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「後漢書」巻二十六「伏侯宋蔡等列伝」より。わたくしも自ら縛り、殴ったりしてはたらいたのにヤラれてしまうかも。
しばらくは直らないらしいです。
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