以為警戒(以て警戒と為す)(「唐才子伝」)
今日は「警戒」の本来の意味がわかりますよ。

おれが目覚めるときに、おそろしいことが起こると言い伝えられているニャぞ、むにゃむにゃ。もうすぐ・・・
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唐備は龍紀元年(889)の進士である。同じころ于濆という人もいて、この二人の詩風は似ており、
大為時流所許。
大いに時流の許すところと為る。
当時、大いにブームとなったものである。
唐備の詩を読んでみます。
1.天若無雪霜、青松不如草。地若無山川、何人重平道。
天にもし雪霜無ければ、青松も草に如かず。地にもし山川無ければ、何人ぞ平道を重んぜん。
天候に雪や霜が無ければ、(季節に関わらず)青いままの松と普通の草と優劣がなくなるだろう。大地にもし山も川も無ければ、だれも平坦な道をありがたがることがなくなるだろう。
実際にはあるので、松(のような節操)は重要であり、平坦(で人間として実践しやすい)な道はありがたいのである。
2.狂風抜倒樹、樹倒根已露。上有数枝藤、青青猶未悟。
狂風樹を抜倒し、樹倒れて根も已に露わる。上に数枝の藤有りて、青青なおいまだ悟らず。
狂ったような強い風が樹木を抜き倒してしまった。木は倒れて根も地上に現れてしまった。ところがこの木の上の方には数枝の藤が寄生しており、その葉は青々として、まだ事態を理解できていない。
国が滅びつつある中でも自己啓発とかしているような人がもしおられるとしたら、そんな感じでしょうか。いえいえみなさんのことではありません・・・と思いますぞ。
3.一日天無風、四溟波自息。人心風不吹、波浪高百尺。
一日天に風無ければ、四溟の波おのずから息(や)む。人心風吹かざるに、波浪高さ百尺なり。
その日、空を風が吹かなければ、四方の海の波はおのずと止んでしまうであろう。だが人間の心は、風が吹かなくても30メートルの波を立てているのだ。
于濆にはこんな詩があります。
4.花開蝶満枝、花謝蝶来稀。惟有旧巣燕、主人貧亦帰。
花開けば蝶枝に満ち、花謝(ち)れば蝶来たること稀なり。ただ旧巣の燕のみ有りて、主人貧なりともまた帰る。
花が咲くと、蝶が枝いっぱいになるぐらいやってくる。花が落ちてしまうと、蝶がもうめったにやってこない。(自然の営みとしてはしようがない。)ところが、去年巣を作っていたツバメだけは、主人が貧しくなってもまたやってきてくれた。
特にこの詩は有名です。
これらの詩は、
発為澆俗、至今人話間、必挙以為警戒、足見之矣。
澆俗のために発し、今に至るも人の間(かん)に話すに、必ず挙げて警戒を為すを以てし、これを見るに足れり。
世俗の泥をそそぎ落すようなコトバであり、現代でもひとびとは世間話の途中に、必ずこの詩を引用して、人生の「いましめ」としている。確かに、意味のあることであろう。
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元・辛文房「唐才子伝」巻九より。わたしのところはツバメなんか来ませんので、貧乏になっても来るものはない。そういえば夏の終りに出現するブリキーゴなどのムシも今年は来なかったなあ。東日本震災から12年、関東大震災なら昭和10年ごろだ。何か大きな災いを惹き起こす力が、マグマのように大地の下で、あるいは人々の心の中で、蠢いているのかも知れません。
このHPもそのうち溜まったマグマがバクハツするように更新し出されるのでは。
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