素帛有用(素帛の用有り)(「奇聞類記摘抄」)
たいていのモノに、用はあるでしょう。

どんどん書きますぞ。
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明の永楽年間(1403~24)のことである。
尚書の胡濚が国家の使いとして、四川にある張仙の祠にお参りしたときのことじゃ。
下山する途中で一人の老僧と出会った。僧は相当な高齢で、「白雲和尚」と名乗った。
臨別、贈胡公素帛一端。
別れに臨んで、胡公に素帛一端を贈れり。
別れる際に、胡尚書に白い布を一枚、くれた。
そして、言うに、
出陜当有用。
陜を出ずればまさに用有るべし。
「四川省から長江が流れ出す三陜の峡谷を過ぎれば、役に立つはずじゃ」
「はあ」
公出陜果遇皇后哀詔。始信其能前知也。
公、陜を出づるに果たして皇后の哀詔に遇えり。始めてそのよく前知するを信ず。
尚書さまが三陜の峡谷を過ぎたところで、皇后が亡くなったという悲しみのみことのりが伝えられた。
白い布はそのまま喪服になったのである。
そんな話などもあってだんだん有名になった白雲和尚は、ついに帝に召し出されて、
至京師。朝士皆敬礼之、独欧陽主事不為礼。
京師に至る。朝士みなこれに敬礼するに、独り欧陽主事のみ礼を為さず。
みやこ北京まで来た。朝廷の紳士たちはみな和尚に深いお辞儀をしたが、欧陽主事だけはお辞儀しなかった。
仏教への反感もあったのである。
白雲呼之、曰、爾非永叔之裔。
白雲はこれを呼んで、曰く、「爾、永叔の裔に非ざるや」と。
白雲和尚はお辞儀をしない欧陽主事を呼び寄せ、言う「おまえさんは、欧陽永叔の子孫ではないか?」
欧陽永叔は、北宋の大儒で実務家であった欧陽脩(1007~1072)のことです。永楽年間から400年ばかり昔のものです。
「え? 名前も名乗っていないのに、なぜお分かりに・・・」
白雲和尚はそれに答えず、
永叔嘗贈我以詩。
永叔かつて我に贈るに詩を以てす。
「欧陽永叔のやつは、むかし、わしに詩を贈ってくれたんじゃ」
探嚢出之、果文忠手筆也。
嚢を探りてこれを出だすに、果たして文忠の手筆なり。
背負っていた頭陀袋の中を調べて、探し出してきた色紙を見るに、確かに先祖の文忠公・欧陽脩の筆跡(に似ていたの)であった。
また、
宋元度牒具在焉。
宋元の度牒、具さに在り。
宋代や元代の僧侶の許可証がきちんと残されていた。
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明・施顕卿「奇聞類紀摘抄」巻二より。すごいなあ。長生きの上に予知能力があるなんて、二刀流です。三年連続MVPぐらいのことは仕出かすでしょう。物持ちもいいみたいですから、ある程度の財産も貯えているのでは。フリーランスでもやっていけますよ。
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