当待何時(当に何れの時を待つべき)(「西門行」)
でも、先のない者が未来のこと考えるというのもおかしいですよね。よし考えるのやめた。

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後漢の楽府(がふ。音楽を司る「楽府」での演奏に合わせる詞の意)「西門行」(西門のうた)にいう、
出西門、歩念之。
西門を出でて、歩みつつ念いぬ。
西の門から出て、歩きながら考えたんじゃ。
今日不作楽、当待何時。
今日楽しみを作さざれば、まさに何れの時を待つべき。
今日楽しいことをしなかったら、いったいいつの時にそれをすればいいのか、と。
逮為楽、逮為楽、当及時。
楽しみを為すに逮(およ)べ、楽しみを為すに逮べ、まさに時に及ぶべし。
楽しいことをしようではないか、楽しいことをしようではないか、すべき時にしようではないか。
何能愁怫鬱、当復待来玆。
何ぞ能く愁いて怫鬱たるや、まさにまた来玆(らいじ)を待つべきか。
どうして憂いて気分がすぐれないでいられるのか、また来る時を待たねばならないのか。
醸美酒、炙肥牛、請呼心所懽、可用解憂愁。
美酒を醸し、肥牛を炙り、請う、心の懽(よろこ)ぶところを呼び、用って憂愁を解くべし。
うまい酒を醸し、肥ったウシの肉をを炙って、本当にやりたいことをやって、それでこの愁いを解決してしまおう。
まったく、
人生不満百、常懐千歳憂、昼短苦夜長。何不秉燭遊。
人生百に満たざるに、常に千歳の憂いを懐き、昼短くして夜の長きに苦しむ。何ぞ、燭を秉りて遊ばざるや。
この四句は、いろんな古詩や楽府に使われる「サビ」です。
人生は百年にも足らないのに、いつも千年も先の(ような)ことを心配しているのだ。そして昼は短くて夜は長い。(夜になると大人しくしているのか、)どうして灯火を持って、夜も遊び続けないのか。
遊行去去如雲除、弊車羸馬為自儲。
遊行し去り去りて雲の除に如(ゆ)く、弊(やぶ)れし車と羸(つか)れし馬もために自ら儲(たくわ)えん。
遊び歩いて、行って行って、雲の通い路まで行こうではないか、ボロボロの車もヘたったウマも、そのために自分で用意したのだ。
「除」は「途」と同じで「道」とか「通り過ぎる場所」の意です。明日こそ雲の通い路まで行きたいぞー。
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宋・郭茂倩編「楽府詩集」より「西門行」。蝋燭を持って遊ぶのも面倒なこのごろであるが、来週のことを考えるよりはいいと思います。若いひとは手に職をつけられるよう働いてほしいのう。だが、そもそも「游ぶ」とはどういうことをすることだっけ?メンコとかだっけ?
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