傷哉貧也(傷(いた)めるかな、貧や)(「唐才子伝」)
心は居眠りしてたんでバテバテではないんですけど、心〇はどんどんダメになってくる気がします。三日も会社行ったのに、まだ明日は金曜日か。

心頭滅却すれば火もまた涼し!
体調とか悪くても、病院探しなど新しいことするのめんどくさいから、がまんするしかないのだ。
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唐の王季友は河南の人である。
暗誦書万巻、論必引経。
暗に書万巻を誦し、論ずるに必ず経を引く。
一万巻もの書物を暗唱しており、議論すると必ず儒教の経典を引用して補強した。
一万巻を記憶? そんなやつおらへんやろ、と普通は思いますが、白髪が三千丈(唐代の1丈≒3.1メートル、3000丈≒9300メートルである)も生えてたやつもいたというのですから、当時はすごいやつがたくさんいたのでしょう。まあ、今の子どもでも、スマホさえ持っていればこれぐらいの記憶力があるのに匹敵するのかも知れません。
こんなに暗記力があるのに、
家貧売屐、好事者多携酒就之。
家貧にして屐(げき)を売り、好事者多く酒を携えてこれに就く。
家が貧乏で下駄を売っていた。彼の家には、ものずきが、よく酒を持ってやってきて、話をしにくるのであった(が、貴族や富豪は来なかった)。
其妻、疾季友窮醜、遣去、来客鄷城。
その妻、季友の窮醜せるを疾(にく)み、去らしめ、鄷城に来たりて客となる。
その妻は、季友が貧乏でしかも醜いのを嫌がって、出稼ぎに行かせた。そこで、彼は江西の鄷城にやってきた。
貧乏な上に醜くかったことがわかりました。韓流で整形しよう・・・にもオカネがないのか、わははは。ひっひっひっひ・・・とみなさんの笑いも聞こえてまいります。
ところが、
刺史李公一見傾敬、即引佐幕府。
刺史・李公一見して傾敬し、即ち引きて幕府を佐けしむ。
鄷城の李太守は一目みて敬意を持つようになり、すぐに引っ張って自分のブレインになってもらった。
という人もいたようです。
季友は、記憶力抜群だっただけでなく、
工詩、性磊落不羈。
詩に工みにして性は磊落不羈なり。
詩がうまく、性格はものにこだわらず、また権威につながれることをいやがった。
人の彼を評して曰く、
愛奇務険、遠出常情之外。白首短褐、崎嶇士林、傷哉貧也。
奇を愛し険に務め、遠く常情の外に出でたり。白首にして短褐、士林に崎嶇(きく)とし、傷めるかな貧なること。
誰にも真似できないようなことが好きで、困難なことに務めた。ふつうの人の気持ちからははるかに外れたことを考えていた。髪の毛が白くなるような年齢になっても身分の低い者の着る短い上着を着て、上級市民たちの間では生きるのに苦労しており、なにより貧乏でひどい目にあっていた。
と。
こんな詩を作っていたそうです。
山中誰余密、白髪日相親。雀鼠昼夜無、知我厨廩貧。
山中には誰か余と密なる、白髪、日に相親しむ。雀鼠は昼夜に無し、我が厨廩(ちゅうりん)の貧しきを知れり。
山の中に住んでいるが、わしと仲がよいのはどなたかな?
わし自身の白髪じゃ、どんどん(増えて)仲良くなってくる。
スズメやネズミとは(仲良くなれず)、昼にも夜にもやってこない。
どうやらわしの台所と食物倉庫がすっからかんなのを知られておるようじゃ。
あるいは、
自耕自刈食為天。如鹿如麇飲野泉。亦知世上公卿貴、且養丘中草木年。
自ら耕し自ら刈り、食を天と為す。鹿の如く麇(のろ)の如く、野の泉に飲む。また世上の公卿の貴きを知れども、しばらく丘中の草木の年を養わん。
自分で耕やし自分で刈り入れ、食べ物が最も尊いものだと思っている。
鹿のように、あるいは大鹿のように、野の泉で水を飲んで暮らしている。
わしだって世の中にはえらい役人や貴族がいるのは知っているが、
(そんなものに興味はないので)しばらく丘の上、草や木の中で暮らしていよう。
というように、
観其篤志山水、可謂遠性風疎、逸情雲上矣。
その篤く山水に志せるを観れば、遠性風疎にして雲上に逸情すると謂うべきなり。
(これらの詩を読めば)山や川の大自然への志向が強いのがわかるであろう。彼は、(社会から)遠く離れようという性格で、風格は粗略であり、雲の上に心を飛ばしてしまっていた、といってよろしかろう。
「遠性風疎、逸情雲上」は対句表現になっていますね。
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元・辛文房「唐才子伝」巻四より。貧乏は困りますね。しかし脱却する方法も思いつかない(めんどくさいのはイヤだし)ので、まだしばらく草木の中で暮らすのがいいと思います。
岡本全勝さんのHPは調子悪いんでしょうか、一日一個しかアップされてないぞ。
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