泰山之鴟(泰山の鴟)(「塩鉄論」)
おコメ券の話がよくわからないです。主食とか食糧安保とか値段とかの議論が、選挙もなしにころりと変わったように見え・・・たのですが、政治家や官僚は賢いんだから賢い人に任せて、わたしどもは漢文でも読んでいよう。ああおもしろいなあ。月が替わってPCが正常化したので、長めの文章が書けるようになったんじゃ。

おどろおどろしい坡老因だ。この人の部屋を探せばどこかに点灯鬼とかもいるかも。
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南方有鳥名鵷鶵、非竹実不食、非醴泉不飲、飛過泰山。
南方に鳥有り、名は鵷鶵(えんすう)、竹実に非ざれば食らわず、醴泉に非ざれば飲まず、飛びて泰山を過ぐ。
「荘子」にもありますとおり(本年8月4日参照)、南の方に「鵷鶵」という鳥がいるそうです。この鳥は、竹の実(のような脱俗的なもの)しか食べず、清らかな泉の水しか飲みません。この鳥が、南から飛んできて、泰山の上を通り過ぎた。
すると、
泰山之鴟、俛啄腐鼠、仰見鵷鶵、而嚇。
泰山の鴟(し)、俛(ふ)して腐鼠を啄み、仰いで鵷鶵を見て、嚇せり。
「泰山に棲むフクロウは、うつむいて腐ったネズミをついばんでいたが、(これを捕られるかと思って)鵷鶵を仰ぎ見ると、「くわっ」と威嚇した―――。
といいます。
今公卿以其富貴、笑儒者為之常行、得無若泰山鴟嚇鵷鶵乎。
今、公卿その富貴を以て、儒者の常行を為すを笑うは、泰山の鴟の鵷鶵を嚇するがごときこと無きを得んや。
さてさて、現代、おえらい方々が自分の財産と地位を誇り、儒者たちがその常なる行動(すなわち貧窮)にあることを嘲笑しているのは、この泰山のフクロウが鵷鶵を威嚇したことと違いは無いのではございますまいか」
と、在野の学士(原文「文学」)が言いました。
すると、高級官僚(原文「大夫」)は、言った、
礼以行之、遜以出之。是以終日言無口過、終身行無冤尤。
礼以てこれを行い、遜以てこれを出だす。是を以て終日言に口過無く、終身行いに冤尤無し。
「行動は礼の定めに沿い、言葉は謙遜の気持ちで出す。このようにすることで、一日の間にコトバの過ちが無く、一生の間に行動にいわれない罪をかぶることがなくなる―――と言いますぞ。
今人主張官立朝以治民、疏爵分禄以褒賢。而曰懸門腐鼠、何辞之鄙背、而悖於所聞也。
今、人主、官を張り朝を立て以て民を治むるに、爵を疏し禄を分じ以て賢を褒む。しかるに「門に腐鼠を懸く」と曰う、何ぞ辞の鄙背にして、聞くところに悖れるや。
現代では、君主(主権者)は役人を任命し役所を作って人民たちを治めています。そのために地位をいくつかに分け、給料にも差を設けて、賢者に仕事をしてもらっているのです。それをあなたは「腐ったネズミを門に引っ掛けて誇っているようなものじゃ、ひひひひ」とバカにした。どうしてそんないやらしい言葉遣いで、わたしなどが聞いてきた常識とは違うことを言うのですか!」
学士は言った、
聖主設官以授任、能者処之。分禄以任賢、能者受之。義貴無高、義取無多。故舜受堯之天下、太公不避周三公。
聖主官を設けて以て任を授け、能者これを処す。禄を分けて以て賢に任じ、能者これを受く。義として貴なれば高きこと無く、義として取れば多きこと無し。故に舜は堯の天下を受け、太公は周の三公も避けず。
「聖なる君主(主権者)は役所を作って任務を与えた。それは能力のある者に仕事をさせるためです。給与を分けて賢者に任せた。それは能力のある者が受け取るようにするためです。意義があって身分が高くなるのなら、誰も高すぎるとは思いません。意義があって財産を得るのなら、誰も取り過ぎだとは思いません。だから、聖人・舜は堯帝に天下を譲られた時、それを受けたのです。太公望は周の大臣に任命された時、それを辞退しなかったのです。
しかし、
苟非其人、箪食豆羹、猶為頼民也。故徳薄而位高、力少而任重、鮮不及矣。
いやしくもその人にあらざれば、箪食(たんし)豆羹(とうこう)といえども、なお民に頼ると爲すなり。故に徳薄くして位高く、力少なくして任重きも、及ばざること鮮(すくな)し。
かりにそのような人材でないならば、瓢箪一本の食い物、粗末なマメのスープであっても、すべて人民に依存していただいているものとなってしまいます。(人民に依存すれば)徳が薄くても地位が高い、能力が少ないのに任務が重い、という人でもなんとかやっていくことはできます。
夫泰山之鴟啄鼠於窮沢幽谷之中、非有害於人也。
それ、泰山の鴟の鼠を啄むは窮沢・幽谷の中においてし、人に害有るにはあらざるなり。
ああ。泰山のフクロウは、ネズミを湿地の奥、暗い渓谷の中で啄んでいるだけですから、(行動は卑劣でも)人に損害を与えているわけではありません。
今之有司、盗主財而食之於刑法之旁、不知機之是発。又以嚇人、其患悪得若泰山之鴟乎。
今の有司、主財を盗みてこれを刑法の旁(かたわら)に食い、機のここに発するを知らず。また以て人を嚇す、その患いいずくんぞ泰山の鴟のごときを得んや。
現代のえらい人たちはどうですか。主権者である民の財産を盗んで、違法や刑罰のぎりぎりのところでむしゃむしゃと食っているようなものだ。バネがびよよんと撥ねて、弓矢が発射される直前だということがわかっていないのか。それなのに、なお自分の得た者を奪われまいようにと人を威嚇しているのだ。泰山のフクロウにも及ばないぐらいダメなやつではないか。
やーい、やーい」
高級官僚は言った、
「おまえは全く間違っている。
天下穣穣皆為利往。尊栄者士之願也、富貴者士之期也。
天下穣穣としてみな利のために往く。尊栄なるものは士の願いなり。富貴なるものは士の期なり。
(司馬遷がいうように(「史記・貨殖列伝」))、天下のひとびとはぞろぞろと、みんな儲けるために動き回っているのではないか。尊敬され繁栄するのは、われわれ意識高い者の願いではないか。財産と地位を得るのは、われわれ意識高い者の期するところではなかったか!」
「あ、そうか。なるほど」
と思えますか否か。
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漢・桓寛「塩鉄論」毀学第十八より。2100年以上前の議論です。議論はまだ続きますが、みなさんはどちらが正しいと思いますか。もちろんみなさんは新自由主義でグローバリストだと思いましたが、最近はナショナリストで積極財政派かも知れません。だが、いずれにしろ正しいのは〇〇の方だと信じて疑わないことであろう。
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