気無烟火(気に烟火無し)(小窗自紀)
今週末はまだ楽しみが少しはあるかも知れませんが、だんだんさびしくなってきます。

明日は働かなくてもお菓子がもらえるらしい。資本主義が解除されるのである。
・・・・・・・・・・・・・
おまけにやる気ないんですわー。
明の時代のことですが、わたしどもは、
生来気無烟火、不必吸露餐霞。
生来、気に烟火無きも、必ずしも露を吸い霞を餐(くら)わず。
「烟火」は、火を使って穀物などを炊くこと、すなわち文明的な食生活をすることを言います。そういう食生活をしない、ということは、穀物や魚肉類は食べない生活になります。それが「生来、気に無い」というのですから、文明的な競争社会でがんばって豪勢なものを食べるような欲望の無い性格である、という意味になります。
生まれつき、火を使った文明的な生活をする気力も無く、一方、草花に置いた露を飲み、朝晩の赤く色づいた空気(=霞。現代日本語の使い方と少し違います)を食べて暮らす、という仙人の生き方をしようとも思わない。
端的にいえば資本主義に適合しないが、仙人になってしまうこともできないのです。そんな暮らしであったが、
運中際少風雲、也会補天浴日。
運中の際に風雲少なきも、また補天と浴日に会さん。
「補天」は、原始時代に、神々の戦争によって天が西北に裂け、大地が東南に低く傾いた時、女媧(じょか)神が粘土を錬って天の裂け目を補ったこと(「列子」天問篇)。「浴日」は、毎日太陽は東から西へ天上を移動してエネルギーを失うのだが、日没の地・甘淵で、羲和(ぎか)が太陽を水浴びさせて、翌朝また元気に東の空に昇らせること(「山海経」大荒南経)。どちらも宇宙の運行のためにはたいへんな功績です。そこで、天地を助けるような大手柄のことを「補天浴日」といいます。
人生の運のめぐりの中に、風雲(に乗じて出世する機会)は少ないタイプなのですが、それでもそのうち壊れた天を補い疲れた太陽を風呂に入れてやるような、大きな手柄を立てるかも知れん。
と言ってたころが懐かしいなあ。
・・・・・・・・・・・・・・
明・呉従先「小窗自紀」65則。カスミ美味いですからね。もう三十年ぐらい昔でしょうか、ひとが「〇〇は肉食系、✕✕は草食系だ、肝冷庵はどちらだ?」と下らん話を振ってきたときに、「わ、わしはカスミしか食わんのじゃ!」とびしっと言ってやったのを思い出します。わしの人生の中でも数少ない勝利の思い出じゃった。
それはそれとして日本シリーズも終わったので、もう大きな手柄の機会がありません。小さなのはあるかも。
コメントを残す