10月19日 寒くなってきました氷河期か

自号猛虎(自ら猛虎と号す)(「後漢書」)

足腰痛いので困ったことですが、涼しくなってきたのでよかった。よもや急に寒くなったりはしませんよね。こんだけ暑い暑いとしてきたんですから、さすがの気象庁も道義的にはできませんわな。
なお、同時代人として申し上げますが、1970年代のころは「氷河期に入ったのではないか」と心配して科学特集とか組まれてたんです。氷河期にならなくてよかったなあ。

呂のばばあにカネで雇われるとは、情けないやつだニワ。

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王莽の新の天鳳元年(西暦14)のころ、山東・琅邪の海岸沿いの海曲という港町に呂母(呂のばばあ)と呼ばれる有力者がいた。

子どもは新の県に務める小役人だったのだが、ちょっとした汚職で締め上げられて、

宰論殺之。

呂母は知事を怨み、

密聚客、規以報仇。母家素豊、資産数百万、乃益醸淳酒、買刀剣衣服。

そんなことを数年やっていたところ、

財用稍尽、少年欲相与償之。

呂母は言った、

所以厚諸君者、非欲求利、徒以県宰不道、枉殺吾子、欲為報怨耳。諸君寧肯哀之乎。

「なんじゃと!」「そうであったか」

少年壮其意、又素受恩、皆許諾。

其中勇士自号猛虎、遂相聚得数十百人、因与呂母入海中。招合亡命、衆至数千。

「コイ」や「ツバメ」「ヒトデ」など自己を卑下する若者も多いというのに、自分たちを「猛虎」とは。どこかで前のめりに沈んでいくような気がいたします。

呂母自称将軍、引兵還攻破海曲、執県宰。

「知事さまは裁判の結果死刑にしただけでございます」「基本的にはよい知事さまです」

諸吏叩頭為宰請。

だが、ばばあは言った、

吾子犯小罪、不当死。而為宰所殺。殺人当死、又何請乎。

遂斬之、以其首祭子冢、復還海中。

この呂ばばあの率いる「海賊」は、ばばあの死後、新を滅ぼす原因となった「赤眉の乱」の主力の一つとなるのでございます。

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「後漢書」巻十一「劉盆子列伝」より。劉盆子は漢の王族の末端みたいな少年で赤眉に担ぎ上げられておみこしにされていたやつです。早めに後漢(光武帝・劉秀)に降伏したので命だけは何とか助かる。早めに降伏が肝腎みたいです。しかし降伏するやつを間違えるとひどい目に遭いますから、早めに降伏するのは難しいんですよね。・・・と評論家みたいなことをいってますが、経験に基づいたコトバかも知れませんよ。

突然ですが、ここに

観ネコ記 令和7年10月19日

を挿入。本日は野球は断念して戸田へ。

左上の方のシロミケは傘の下に入るのが好きで、さらに寒かったので、しりたたきをさせながら、人間アンカとして利用してきます(四枚目)。バグミケ(三枚目のみ)は足を痛めてキャットハウスでおとなしくしているみたいですが、しりたたき人足(わたしのことです)が来たので出てきてしりをたたかせました。

最後の二枚は駐車場近くの死にかけ・足折れネコ。ついにネコ風邪もひいたみたいで咳をしながらメシを食う。これがラストストローになるのかも。

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