自号猛虎(自ら猛虎と号す)(「後漢書」)
足腰痛いので困ったことですが、涼しくなってきたのでよかった。よもや急に寒くなったりはしませんよね。こんだけ暑い暑いとしてきたんですから、さすがの気象庁も道義的にはできませんわな。
なお、同時代人として申し上げますが、1970年代のころは「氷河期に入ったのではないか」と心配して科学特集とか組まれてたんです。氷河期にならなくてよかったなあ。

呂のばばあにカネで雇われるとは、情けないやつだニワ。
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王莽の新の天鳳元年(西暦14)のころ、山東・琅邪の海岸沿いの海曲という港町に呂母(呂のばばあ)と呼ばれる有力者がいた。
子どもは新の県に務める小役人だったのだが、ちょっとした汚職で締め上げられて、
宰論殺之。
宰これを論殺せり。
知事は、こいつを死刑にしてしまった。
呂母は知事を怨み、
密聚客、規以報仇。母家素豊、資産数百万、乃益醸淳酒、買刀剣衣服。
密かに客を聚め、規するに以て仇を報いんとす。母家もと豊かにして、資産数百万、すなわち益々淳酒を醸し、刀剣衣服を買う。
内密に侠客を集め、息子のかたき討ちをしようと定めた。ばばあの家はもとから豊かで、資産は数億円もあり、まずは(造り酒屋なのでしょう)造り酒屋の醸造量を増やし(振る舞うためです)刀剣や衣服を買い集めた。
少年来酤者、皆賖与之、視其乏者、輒仮衣裳、不問多少。
少年の来酤者、みなこれに賖(おぎの)り与え、その乏しき者を視れば、すなわち衣裳を仮し、多少を問わざりき。
若者が(酒を)買いに来ると、かれらにはツケでどんどん飲ませた。なかでも貧乏そうなやつには、衣服を貸し与えた。希望者には希望の量だけ与え、量には構わなかった。
そんなことを数年やっていたところ、
財用稍尽、少年欲相与償之。
財用やや尽き、少年相ともにこれを償わんとす。
資産もだいぶん傾いてきてしまったので、若者たちは相談して借金を返そうとした。
呂母は言った、
所以厚諸君者、非欲求利、徒以県宰不道、枉殺吾子、欲為報怨耳。諸君寧肯哀之乎。
諸君に厚き所以のものは、利を求むるに非ず、ただに県宰の不道に吾が子を枉げて殺し、怨みに報ずるを為さんと欲するを以てするのみ。諸君なんぞあえてこれを哀れまんか。
「あんたたちをこれまで厚遇してきたのは、カネ儲けなんかしようとしたんではないのだ。ただ、県知事のやつが非道にも、わたしの子を不正に殺したので、その怨みに報いるためだったのだ。あんたたちはどうしてわたしを哀れと思わないでいられるのかね」
「なんじゃと!」「そうであったか」
少年壮其意、又素受恩、皆許諾。
少年らその意を壮とし、またもと恩を受け、みな許諾す。
若者たちは、ばばあの決意をかっこいいとみなしたし、いろいろ恩義も受けていたので、一人残らず仇討に協力することを表明した。
其中勇士自号猛虎、遂相聚得数十百人、因与呂母入海中。招合亡命、衆至数千。
その中、勇士の自ら「猛虎」と号するもの、遂に相聚まりて数十百人を得。因りて呂母とともに海中に入る。亡命を招合し、衆数千に至れり。
その中でも「猛虎」と自分たちで称しているグループが、結局集まってきて百人内外が中心になり、呂のばばあとともに海浜の島や船に集まって、反権力運動を始めたのであった。
「コイ」や「ツバメ」「ヒトデ」など自己を卑下する若者も多いというのに、自分たちを「猛虎」とは。どこかで前のめりに沈んでいくような気がいたします。
呂母自称将軍、引兵還攻破海曲、執県宰。
呂母自ら将軍と称し、兵を引きてまた海曲を攻破し、県宰を執らう。
呂のばばあは自ら「将軍さま」と称し、兵を率いて海曲の町に戻って攻撃して、県知事を捕らえた。
「知事さまは裁判の結果死刑にしただけでございます」「基本的にはよい知事さまです」
諸吏叩頭為宰請。
諸吏叩頭して宰のために請う。
県庁の下っ端役人たちは、土下座して頭を地面にがんがんぶつけながら、知事の命乞いをした。
だが、ばばあは言った、
吾子犯小罪、不当死。而為宰所殺。殺人当死、又何請乎。
吾子は犯すところ小罪にして死するべからず。しかるに宰の殺すところとなる。「人を殺せばまさに死すべし」、また何の請かあらん。
うちの子はとるに足らない罪を犯しただけで、死罪になるようなことではなかったのに、県知事にぶっころされたんだ。「人を殺したやつは死を以て償うべし」というじゃないか。なんで命乞いなどするのかね(したってしようがあるまい)。
遂斬之、以其首祭子冢、復還海中。
遂にこれを斬りて、その首を以て子の冢を祭り、また海中に還る。
とうとうこれを切り殺し、その首を捧げものとして息子の墓前祭を執り行って、それを終えると(町には住めないので)また島嶼部に行ってしまった・・・。
この呂ばばあの率いる「海賊」は、ばばあの死後、新を滅ぼす原因となった「赤眉の乱」の主力の一つとなるのでございます。
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「後漢書」巻十一「劉盆子列伝」より。劉盆子は漢の王族の末端みたいな少年で赤眉に担ぎ上げられておみこしにされていたやつです。早めに後漢(光武帝・劉秀)に降伏したので命だけは何とか助かる。早めに降伏が肝腎みたいです。しかし降伏するやつを間違えるとひどい目に遭いますから、早めに降伏するのは難しいんですよね。・・・と評論家みたいなことをいってますが、経験に基づいたコトバかも知れませんよ。
突然ですが、ここに
観ネコ記 令和7年10月19日
を挿入。本日は野球は断念して戸田へ。




左上の方のシロミケは傘の下に入るのが好きで、さらに寒かったので、しりたたきをさせながら、人間アンカとして利用してきます(四枚目)。バグミケ(三枚目のみ)は足を痛めてキャットハウスでおとなしくしているみたいですが、しりたたき人足(わたしのことです)が来たので出てきてしりをたたかせました。


最後の二枚は駐車場近くの死にかけ・足折れネコ。ついにネコ風邪もひいたみたいで咳をしながらメシを食う。これがラストストローになるのかも。
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