宇宙何悠(宇宙何ぞ悠(はる)かなる)(「陶淵明集」)
今日もあちこち痛い上に、会社を出る時にこれだけは忘れてはいけないのう、と手にしていたものさえ忘れてきてしまいました。毎日毎日こんなことばかりじゃ。大切なモノも人も感情も忘れていくのじゃのう。いろいろお世話になりました。

もうやまわろになっている季節だ。すさまじいワルになっているはず。山道で石を落としてきたり、不気味な声で道を迷わせてきたりするぞ!
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貧居乏人工、灌木荒余宅。
貧居には人工乏しく、灌木余が宅に荒れたり。
貧しい家には人の手はあまりかけられないので、背の低い木々がわしの家には勝手に生えてはびこっている。
この詩の作者には家があるようです。わしにはそれも無いんです。
班班有翔鳥、寂寂無行迹。
班班(はんはん)として翔ぶ鳥有るも、寂寂(せきせき)として行迹(こうせき)無し。
「班班」は「ひらひら」「はらはら」。「寂寂」は「ひっそり」と静かなさま、ですが、ここは「まったく何も無い」という情景を表わしています。
(その木の間を)ひらひらと飛んでいく鳥がいるが、その飛んだ跡はなんにも残っていはしない。
ここまでは、情景などを隠喩にして、次の抒情を引き出す「興」といわれる詩法です。さあ、それで何を思ったか。
宇宙一何悠、人生少至百。
宇宙は一に何ぞ悠(はる)かなる、人生は百に至るもの少なし。
宇宙という時間的にも空間的にも、まったくなんとはるかなものであろうか。この中で人間の生命は、百年に至る者さえ滅多にいない。(そして、鳥のように飛んだ跡さえ遺さない。)
今日は村山富市元総理が百一歳でなくなられたとのこと。村山さんぐらい長くがんばっても百プラス1が限度であった。
歳月相催逼、髩辺早已白。
歳月は相催(もよ)おし逼り、髩(びん)辺は早く已に白し。
年と月は互いに煽りあって迫ってくる。わしも両方の鬢が早くもすでに白くなってしまった。
まだ若いですね。わしら(←気が大きくなってきて複数形に)は天頂も薄くなり、中身もスカスカに。
こうなりますと、
若不委窮達、素抱深可惜。
もし窮達に委ねずば、素抱を深く惜しむべからん。
何言ってるのかちょっとわかりづらいですが、おそらく、
困窮すること栄達することは、(もう運命として天に)お任せしてしまおう。そうしなければ、もともとから抱いている(やりたいこと。例えば隠棲)を(できずに)深く残念な思いをすることになろうから。
ということが言いたいんだと思います。
そんな四十五十のこわっぱが言いたいような状態は、わしらはもう通り過ぎたのだ。ははは。こわっぱども、待っておるぞ。
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もうがんばっても何をがんばっているのか忘れてしまう年頃になってきました。明日になったらみなさんを忘れててもしようがないですのう。どうせみなさんもAIにやられてしまうでしょうし。では。では。
・・・これを忘れるとこでした、
六朝宋(晋)・陶淵明「飲酒」詩第十五、でした。
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