10月17日 なんで気づいているのに忘れて来るのか

宇宙何悠(宇宙何ぞ悠(はる)かなる)(「陶淵明集」)

今日もあちこち痛い上に、会社を出る時にこれだけは忘れてはいけないのう、と手にしていたものさえ忘れてきてしまいました。毎日毎日こんなことばかりじゃ。大切なモノも人も感情も忘れていくのじゃのう。いろいろお世話になりました。

もうやまわろになっている季節だ。すさまじいワルになっているはず。山道で石を落としてきたり、不気味な声で道を迷わせてきたりするぞ!

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貧居乏人工、灌木荒余宅。

この詩の作者には家があるようです。わしにはそれも無いんです。

班班有翔鳥、寂寂無行迹。

「班班」は「ひらひら」「はらはら」。「寂寂」は「ひっそり」と静かなさま、ですが、ここは「まったく何も無い」という情景を表わしています。

ここまでは、情景などを隠喩にして、次の抒情を引き出す「興」といわれる詩法です。さあ、それで何を思ったか。

宇宙一何悠、人生少至百。

今日は村山富市元総理が百一歳でなくなられたとのこと。村山さんぐらい長くがんばっても百プラス1が限度であった。

歳月相催逼、髩辺早已白。

まだ若いですね。わしら(←気が大きくなってきて複数形に)は天頂も薄くなり、中身もスカスカに。
こうなりますと、

若不委窮達、素抱深可惜。

何言ってるのかちょっとわかりづらいですが、おそらく、

ということが言いたいんだと思います。

そんな四十五十のこわっぱが言いたいような状態は、わしらはもう通り過ぎたのだ。ははは。こわっぱども、待っておるぞ。

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もうがんばっても何をがんばっているのか忘れてしまう年頃になってきました。明日になったらみなさんを忘れててもしようがないですのう。どうせみなさんもAIにやられてしまうでしょうし。では。では。
・・・これを忘れるとこでした、

六朝宋(晋)・陶淵明「飲酒」詩第十五、でした。

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