吁嗟篇(吁嗟(くさ)の篇)(「曹子建集」)
膝だけでなく足全体もおなかも痛いんです。ああ!もうやる気ない。といってサボっていると、ああ!切羽詰まってきます。大した仕事してないのに締め切りの時にはいつも切羽詰まっているんです。ああ!わたしはなんとダメなのだろう。もう絶望だ、何もしたくない。

スポーツの日だそうです。休みだ、ということは認識していたがなんの日だ、というの覚えてた人いる?
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今回は、魏の曹植の「吁嗟篇」(くさ・へん)を読んでみます。もともとこういう題名の楽府(漢代の歌曲)があり、「吁嗟」(くさ。「ああ!」と慨嘆する意)で始まっていた。その曲調に合わせて、魏の曹植が新しく作った歌です。後代のチャイナ文学に大きな影響を与え、いろんなところで引用されたり前提とされていたりするので、一度は読んでおかないといけません。
吁嗟此転蓬、居世何独然。
吁嗟(くさ)、この転蓬(てんぽう)、世に居るに何ぞ独り然るや。
「転蓬」はヨモギの一種ですが、秋になると根っこから抜けて、風に吹かれてあちらこちらへ転がり、あるいは空を飛んでタネを各地に広げようとする。その根っこを失い土地から切り離されるのを旅人に喩えて、詩語として使われます。
ああ! この転がりヨモギを見たまえ、世間にあるものの中で、こいつだけがこうなのだ。
どうなのかというと、
長去本根逝、夙夜無休閒。
長(とこし)なえに本根を去りて逝き、夙夜に休閒無し。
永久に根っこのある土地から離れて行き、朝も夜も休む時なく転がっているのである。
最初に根っこから抜けると、ごろごろ転がって、
東西経七陌、南北越九阡。
東西には七陌(しちはく)を経、南北は九阡(きゅうせん)を越ゆ。
「陌」は東西に延びるあぜ道、「阡」は南北に延びるあぜ道をいう、ということなのですが、あんまり細かく考えないでください。一望する原野を転がっている、ぐらいのイメージです。
東西の七つの道を越え、南北に九つの道を越える。
卒遇回風起、吹我入雲間。
ついに回風の起こるに遇い、我を吹きて雲間に入らしむ。
そのうちぐるぐる回る竜巻に出会い、わしを吹き上げて雲の間まで連れて行った。
自謂終天路、忽然下沈淵。
自ら天路に終えんと謂うに、忽然として沈淵に下る。
もうこの空の上で終わりにしよう、と自分では言ってたのに、今度はたちまちにして深い淵の中へと沈み込んだ。
そこから今度は、
驚飇接我出、故帰彼中田。
驚飇(けいひょう)は我を接(むか)えて出だし、故(もと)の彼の中田に帰さんとするか。
「驚」はここでは「けい」と読んで「すばやい」、「飇」は「猋」(ひょう。はやい)に「風」がついて、速い風、疾風のこと。
疾風が(水底の)わしを吸い上げて水面に出して、もともと植えられていたところに帰してくれるのかも知れない。
だが、
当南而更北、謂東而反西。
まさに南すべきにさらに北し、東と謂(おも)うに反って西す。
南に行かないといけなにのにどんどん北に行き、東のはずなのにかえって西に向かう。
宕宕当何依、忽亡而復存。
宕宕(とうとう)としてまさに何に依るべき、忽ち亡してまた存す。
「宕宕」はここでは「蕩蕩」の書き換えで、「はるかな遠く」。
はるばる遠いところまで、一体何に頼っていけばいいのか、(たいへん心もとない状態なので)ふっと消滅してしまった―――と思ったら、また存在を取り戻した。
量子力学的な状態です。

シュレージンガーねこ知っとるかニャ?さて、おれは死んでる?生きてる?
飄颺周八沢、連翩歴五山。
飄颺(ひょうよう)として八沢を周(めぐ)り、連翩(れんぺん)として五山を歴(ふ)る。
ひらひらと(禹の昔より存在するという八つの巨大な湿地)をめぐり、ばさばさと泰山以下の五つの高い山をまわった。
流転無恒処、誰知吾苦艱。
流転して恒処無く、誰か知る吾が苦艱を。
流れ転がり、一か所にいることはなく、誰もわしの苦しみを知ろうともしてくれぬ。
ということで絶望してきまして、
願為中林草、随秋野火燔。
願わくば中林の草と為りて、秋に随いて野火に燔(や)かれんことを。
こうなったら、林の中の草になってしまい、秋になったら野火によって焼かれたいものだと考えた。
糜滅豈不痛、願与株荄連。
糜滅はあに痛ましからずや、株・荄(かい)と連ならんことを願うなり。
「株」は「切り株」、「荄」(かい)は根っこ。古来、兄貴にいじめられたという曹植の人生を思って、兄弟を比喩すると解されています。
ただれて無くなってしまうのは痛ましいことではないか、しかしそれでも、わしは切株や根っこと一緒にいたいのだ。
近年は別に曹植はいじめられていたわけではないのではないか、という説も強くなってきております。「兄弟」と強解する必要はなく、ふつうに郷党や同族、あるいは心やすい人たち、というふうに考えておけばいいのでは。
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魏・曹植「吁嗟篇」(「曹子建集」より)でした。足だけでなく腹まで痛いので二回ぐらいに分けて使おう、と思ったのですが、すかすかと解せるので一回で終わってしまいました。わかりやすくて(文字だけでなく内容がたいへん一般的なので)いい詩ですよね。わかる喜びだけでなく使う喜びもあります。最初の四行ぐらい大声で読んでいるだけで気が晴れる・・・こともあるかも知れません。人前で試してみてください。
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