10月13日 足も痛いしもうダメだいろんなことが

吁嗟篇(吁嗟(くさ)の篇)(「曹子建集」)

膝だけでなく足全体もおなかも痛いんです。ああ!もうやる気ない。といってサボっていると、ああ!切羽詰まってきます。大した仕事してないのに締め切りの時にはいつも切羽詰まっているんです。ああ!わたしはなんとダメなのだろう。もう絶望だ、何もしたくない。

スポーツの日だそうです。休みだ、ということは認識していたがなんの日だ、というの覚えてた人いる?

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今回は、魏の曹植の「吁嗟篇」(くさ・へん)を読んでみます。もともとこういう題名の楽府(漢代の歌曲)があり、「吁嗟」(くさ。「ああ!」と慨嘆する意)で始まっていた。その曲調に合わせて、魏の曹植が新しく作った歌です。後代のチャイナ文学に大きな影響を与え、いろんなところで引用されたり前提とされていたりするので、一度は読んでおかないといけません。

吁嗟此転蓬、居世何独然。

「転蓬」はヨモギの一種ですが、秋になると根っこから抜けて、風に吹かれてあちらこちらへ転がり、あるいは空を飛んでタネを各地に広げようとする。その根っこを失い土地から切り離されるのを旅人に喩えて、詩語として使われます。

どうなのかというと、

長去本根逝、夙夜無休閒。

最初に根っこから抜けると、ごろごろ転がって、

東西経七陌、南北越九阡。

「陌」は東西に延びるあぜ道、「阡」は南北に延びるあぜ道をいう、ということなのですが、あんまり細かく考えないでください。一望する原野を転がっている、ぐらいのイメージです。

卒遇回風起、吹我入雲間。

自謂終天路、忽然下沈淵。

そこから今度は、

驚飇接我出、故帰彼中田。

「驚」はここでは「けい」と読んで「すばやい」、「飇」は「猋」(ひょう。はやい)に「風」がついて、速い風、疾風のこと。

だが、

当南而更北、謂東而反西。

宕宕当何依、忽亡而復存。

「宕宕」はここでは「蕩蕩」の書き換えで、「はるかな遠く」。

量子力学的な状態です。

シュレージンガーねこ知っとるかニャ?さて、おれは死んでる?生きてる?

飄颺周八沢、連翩歴五山。

流転無恒処、誰知吾苦艱。

ということで絶望してきまして、

願為中林草、随秋野火燔。

糜滅豈不痛、願与株荄連。

「株」は「切り株」、「荄」(かい)は根っこ。古来、兄貴にいじめられたという曹植の人生を思って、兄弟を比喩すると解されています。

近年は別に曹植はいじめられていたわけではないのではないか、という説も強くなってきております。「兄弟」と強解する必要はなく、ふつうに郷党や同族、あるいは心やすい人たち、というふうに考えておけばいいのでは。

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魏・曹植「吁嗟篇」(「曹子建集」より)でした。足だけでなく腹まで痛いので二回ぐらいに分けて使おう、と思ったのですが、すかすかと解せるので一回で終わってしまいました。わかりやすくて(文字だけでなく内容がたいへん一般的なので)いい詩ですよね。わかる喜びだけでなく使う喜びもあります。最初の四行ぐらい大声で読んでいるだけで気が晴れる・・・こともあるかも知れません。人前で試してみてください。

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