善刀而蔵(刀を善’(ぬぐ)いて蔵(おさ)む)(「荘子」)
よく切れるものは、「ひひひ・・・」と言いながら振り回したりしてはいけません。

刀を抜いてはいかん。おにぎりでも食って、ガマン、ガマンじゃ。
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かいつまんで話しますと、戦国・梁(魏)の恵王の料理人・庖丁(ほうてい)が、王の前でウシを解体しました。その見事な技術を見ていた王は、
善哉、技蓋至此乎。
善きかな、技はけだしここに至れるか。
「すばらしい。技術というのはここまで窮められるものなのだなあ」
と称讃しました。すると、庖丁は、
臣之所好者道也、進乎技矣。
臣の好むところは道なり、技を進めしものなり。
「わたしの求めているところは、道ですじゃ。技術をもう少し進めたものです」
と答えた。
そして、「道」の状態まで進んだ状況を伝えて言うに、
・・・わたしがウシの肉と骨を切り分けるため刃を使いますと、
恢恢乎其於游刃必有余地矣。是以十九年而刀刃若新発於硎。
恢恢乎(かいかいこ)としてその游刃に必ず余地有り。是を以て十九年にして刀刃、新たに硎(けい)に発するが若し。
スカスカになっていて、刃を自由に動かすところに、必ず隙間があります。このおかげで、十九年間(一度も研がなくても)わたしの刃は新たに砥石を使ったかのようなのです。
「恢恢」(かいかい)は「老子」の「天網恢恢、疎にして漏らさず」(天の網はスカスカで、目が大きいのだが逃れることはできませぬ)の「恢恢」です。
・・・そのようなわたしでも、
毎至於族、吾見其難為、怵然大戒、視為止、行為遅、動刀甚微。
族に至るごとに、吾その為し難きを見、怵然(じゅつぜん)として大戒し、視ることために止まり、行うことために遅れ、刀を動かすこと甚だ微なり。
肉と骨が重なった関節の部分まで来ますと、わたしはその困難なことを見て、恐れてたいへん緊張し、このために視線は一点に定まり、動きはゆっくりしたものになり、ほんの少しづつ庖丁を動かすのです。
むむむ・・・。ばさり!
謋然已解、如土委地、提刀而立、為之四顧、為之躊躇。
謋然(かくぜん)として已に解け、土の地に委ぬるが如ければ、刀を提げて立ち、これがために四顧し、これがために躊躇す。
ばっさりと、まるで土が地面に落ちるように自然に切り離すことができると、わたしは庖丁を手にしたまま立ちすくんで、そのまま四方を見まわし、そのまましばらく動くことができなくなります。
やがて、
満志、善刀而蔵之。
志を満たし、刀を善(ぬぐ)いてこれを蔵(おさ)む。
充実感でいっぱいになり、刀をよく拭って、しまいこむのです。
この「善」は「繕」の意。刀なので我が国では一般に「ぬぐう」と訓じています。
「ああ」
王はためいきをついて、言った、
善哉。吾聞庖丁之言、得養生焉。
善きかな。吾、庖丁の言を聞きて、生を養うを得たり。
「すばらしい。わしは、庖丁(ほうてい)の言葉を聞いて、充実して生きるとはどういうことか、わかったような気がする」
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「荘子」養生主篇より。「道」を体得した時の「游刃余地有り」の境地を明確にするなど、東洋思想史上にあまりにも有名な一節ですが、今日はそちらより、
志を満たし、刀を善(ぬぐ)いてこれを蔵(おさ)む。
の方をご覧くだされ。
一仕事終えられた方は、どうぞそのよく切れる刀をきれいに拭って、収めておいてください。また使う時もあるかも知れないし、別の誰かが使うかも知れないので。
それにしても「荘子」はオノマトペの使い方が巧いなあ。
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