9月19日 インターネットに繋がらないことがわかった

釈滞消壅(滞を釈き壅を消す)(「焚書」)

滞っているのを溶かし、塞がっているのを通じさせるにはどうすればよいか。

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唐の基毋旻に、茶のことを言って、

釈滞消壅、一日之利暫佳、瘠気耗精、終身之害斯大。

心に滞っているのを溶かし、のどにふさがっているのを消す。短期的な利益は確かに素晴らしい。だが、体力を弱らせ精力を減らしてしまい、生涯における害はまことに大きい。

茶の効力より害悪のほうが大きく、茶災というべきである、と。

がははは。

わしはこれを読んで大笑いした。

釈滞消壅、清苦之益実多、瘠気耗精、情欲之害大。貽害則不謂茶殃。

心に滞っているのを溶かし、のどに塞がっているのを消す。清く苦いお茶の益は実に多い。一方、体力を弱らせ精力を減らすのは、エッチの心の害があまりに大きいではないか。自ら害を及ぼすのを茶の災いと言えるだろうか。

ああ、これは己に緩く他人に厳しい議論である。

そこで、わしは茶をつまむ箸に銘を書き込んだ。

我老無朋、朝夕唯汝。

我老いて朋無く、朝夕ただ汝のみ。

わしは老いて一人暮らし、朝も夕もおまえさんだけ。

世間清苦、誰能及子。

世間の清苦、誰かよく子に及ばん。

この世の清々しい苦味(欲のない苦労人)はおまえさんが一番じゃ。

逐日子飯、不弁幾ショウ(釒に重)。

逐日子を飯し、幾ショウなるを弁ぜず。

「一ショウ」は古代の大壺の容量で、50リットル弱。

毎日お前さんをつまんで、今まで何十壺になったやら。

毎夕子酌、不問幾許。

毎夕子を酌し、幾ばくなるかを問わず。

毎晩お前さんを飲んで、今までどれぐらいになったかわからん。

夙興夜寐、我願与子終始。

夙(あした)に興き夜に寐るに、我は願う子と終始せんかとを。

朝起きてから夜眠るまで、おまえさんといつも一緒にいたいのう。

子不姓湯、我不姓李、総之一味清苦到底。

子は湯(とう)を姓とせず、我は李を姓とせず、これを総じて一味の清苦に到底せん。

おまえさんは「わしは湯氏だ」と言うな。わしは「わしは李氏だ」とは言いません。二人でひとつの味、「清々しい苦味」に徹底しようではないか。

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明・李贄「茶鋏銘」(「焚書」巻五所収)。PCではなくモバイルの問題ぽいぞ。お茶でも飲んで寝ます。今日はドクダミ茶です。

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