釈滞消壅(滞を釈き壅を消す)(「焚書」)
滞っているのを溶かし、塞がっているのを通じさせるにはどうすればよいか。

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唐の基毋旻に、茶のことを言って、
釈滞消壅、一日之利暫佳、瘠気耗精、終身之害斯大。
心に滞っているのを溶かし、のどにふさがっているのを消す。短期的な利益は確かに素晴らしい。だが、体力を弱らせ精力を減らしてしまい、生涯における害はまことに大きい。
茶の効力より害悪のほうが大きく、茶災というべきである、と。
がははは。
わしはこれを読んで大笑いした。
釈滞消壅、清苦之益実多、瘠気耗精、情欲之害大。貽害則不謂茶殃。
心に滞っているのを溶かし、のどに塞がっているのを消す。清く苦いお茶の益は実に多い。一方、体力を弱らせ精力を減らすのは、エッチの心の害があまりに大きいではないか。自ら害を及ぼすのを茶の災いと言えるだろうか。
ああ、これは己に緩く他人に厳しい議論である。
そこで、わしは茶をつまむ箸に銘を書き込んだ。
我老無朋、朝夕唯汝。
我老いて朋無く、朝夕ただ汝のみ。
わしは老いて一人暮らし、朝も夕もおまえさんだけ。
世間清苦、誰能及子。
世間の清苦、誰かよく子に及ばん。
この世の清々しい苦味(欲のない苦労人)はおまえさんが一番じゃ。
逐日子飯、不弁幾ショウ(釒に重)。
逐日子を飯し、幾ショウなるを弁ぜず。
「一ショウ」は古代の大壺の容量で、50リットル弱。
毎日お前さんをつまんで、今まで何十壺になったやら。
毎夕子酌、不問幾許。
毎夕子を酌し、幾ばくなるかを問わず。
毎晩お前さんを飲んで、今までどれぐらいになったかわからん。
夙興夜寐、我願与子終始。
夙(あした)に興き夜に寐るに、我は願う子と終始せんかとを。
朝起きてから夜眠るまで、おまえさんといつも一緒にいたいのう。
子不姓湯、我不姓李、総之一味清苦到底。
子は湯(とう)を姓とせず、我は李を姓とせず、これを総じて一味の清苦に到底せん。
おまえさんは「わしは湯氏だ」と言うな。わしは「わしは李氏だ」とは言いません。二人でひとつの味、「清々しい苦味」に徹底しようではないか。
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明・李贄「茶鋏銘」(「焚書」巻五所収)。PCではなくモバイルの問題ぽいぞ。お茶でも飲んで寝ます。今日はドクダミ茶です。
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