以柔道行(柔道を以て行わん)(「後漢書」)
苦境脱出のために行った昨日のムリがたたり、午前中はふにゃふにゃになって会社で爆睡。午後は起きてたけど何事にも反応せずとろんとしてました。もう精神力ではどうにもならないんです。

強い精神力でシャキッとしていただきたいものでぶな。
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後漢の初代・光武帝の建武十七年(41)冬十月、光武帝は郷里の南陽に行幸し、父や祖父の墓(章陵)にお参りした。
修園廟、祠旧宅、観田廬、置酒作楽、賞賜。
園廟を修め、旧宅を祠し、田廬を観、酒を置きて楽を作して、賞賜せり。
境内の庭園とお廟の建物を修理し、むかし住んでいた住宅も祀り、家のものだった田んぼや耕作小屋を見て回った後、お酒を出し音楽を鳴らし、近所の者たちを呼んで賞状や賜りものなどを贈った。
時宗室諸母因酣悦、相与語曰。
時に宗室の諸母、因りて酣悦し、相ともに語りて曰う。
この時、皇帝一族のばあさんやおばさんたちは、おかげで酔っぱらって気持ちよくなり、互いに話し合って、こんなことを言った。
文叔少時謹信、与人不款曲、唯直柔耳。今乃能如此。
文叔、少時謹信なり、人と款曲せずして、ただ直にして柔なるのみ。今すなわち能くかくの如きか。
「文叔(三番目の文ちゃん。光武帝は三男坊である)は、ちっちゃいころはあんまりものを言わない子だったよね。他人とうちとけて話すということはなくて、いつも素直でふにゃふにゃしていたのに、今ではこんなにえらくなっちゃって・・・」
光武帝はこれを聞いて大笑いなされ、
吾理天下、亦欲以柔道行之。
吾の天下を理(おさ)むる、また柔なる道を以てこれを行わんと欲す。
「わしは、天下を治めるのも、やはりふにゃふにゃ作戦でやって行きたいと思っとるんじゃよ」
とおっしゃり、おばちゃんたちの大人気であった。
乃悉為舂陵宗室起祀堂。
すなわち悉く舂陵の宗室のために祀堂を起こせり。
そんなこんなで、現地の一族のお墓全体の祭祀を行うための集会所を作った。
一族はさらに仲良くなったのである。時に、
有五鳳凰見於穎川之村県。
五鳳凰の、穎川の村県に見(あら)われる有り。
南陽の隣の汝州付近、穎川沿いの村という県に、鳳凰が五羽、現れたのであった。
いやー、めでたいなあ。
「東観漢記」によれば、この時出現したのは、
鳳凰八尺、五彩、群鳥並従、行列蓋地数頃、停一十七日。
鳳凰は八尺にして五彩、群鳥並び従い、行列して地を蓋うこと数頃、停まること一十七日なり。
鳳凰は高さ1.85メートルぐらい(後漢の一尺≒23センチで計算)、鳥としては巨大で、五色にいろどられている。多くの鳥が(臣下が皇帝にするように)つき従い、何列にも並んで地面を10~15ヘクタール(当時の一頃≒460アール)も覆い尽くしていた。鳳凰は出現後、17日間そこにいた。
とのこと。詳細な記録が遺されていました。
十二月、至自章陵。
十二月、章陵より至る。
十二月に、皇帝は南陽の章陵から洛陽にお帰りあそばされた。
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「後漢書」巻一下「光武帝紀第一」より。「清通鑑」読み終わったんで「後漢書」を読み始めました。あとどれぐらい本読めるんでしょうね。「もっと役に立つものを読みたまえよ」とご忠告ありがとうございます。だがもう年寄にはこれまでの生き方を変えることはなかなかできませんのじゃよ。「役に立つ本も役に立たないのも読まなくていいから毎日めしだけくっとれ。片付けもしなくていい」という忠告なら聴くかも知れません。
なお、「東観漢記」は、今では散佚してこのような断簡しか伝わっていませんが、後漢時代に宮中の東観で編纂されていた同時代史料です。非常に史料的価値は高いといわれるのですが(確かに鳳凰の生態なんて他の本には書いてありません(苦笑))、そんな本でも「後漢書」という便利な本が後から出来ると散佚してしまうのですから、むかしの東洋の人が「記録」を大切にしていた、なんていうことはありません。もちろん、都合のいい記録は大切にしていると思います。みなさん同様?。
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